読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

誰に語りかけた「真実」だったのか?――ネットの結び目の変化と意識の変化

コミュニケーション

 
 先日の記事に、文芸評論家の藤田直哉さんから以下のツイートを頂いた。
 
 

 
 これを読んでふと思い出した。
 
 西暦2000年頃の私も「インターネットにはテレビや新聞に載ってないたぐいの真実(実話)がある」と間違いなく思い込んでいた。藤田さんもそうだったらしいし、私のネット仲間達もそうだったと思う。
  
 でも、当時の「ネットには真実(実話)が書かれている」は、読み手としてそう思い込んでいただけではなかった。
 
 あの頃の私達は、ネットの読み手であるとともに書き手でもあった。ROM(read only member)もいただろうけれども、「ネットだけの真実」を掘り起こしていた人間は、しばしば真実を書く側でもあった。読み手としての「ネットでしか読めない真実がある」は、書き手としての「ネットでしか書けない真実がある」と表裏一体をなしていた。
 
 当時のウェブサイトの書き手/読み手の意識は現在のソレとはかなり違っていた。
 
 十年以上前の、きわめて個人的で趣味的な無数のウェブサイトとその書き手達。彼らは“世間”に向かって真実や実話を開陳していたのではない。彼らのウェブサイトはWWWという世界的な情報ネットワークに接続していたけれども、その実、彼らの意識は自分と趣味や境遇をシェアできそうな人間のほうを向いていた。
 
 全世界、いや全日本にむかって自己開陳し、人気者になりたいと思っていた人間・実際にそのように振る舞える人間が、あの時代の個人ウェブサイト主のなかにどれだけいただろうか?ごく少数の例外を除けば、せいぜい「同じ趣味の人間がたくさん来てほしい」だったのではないか。
 
 ファンフィクション系のウェブサイトのなかには、トップページに「同じ趣味の人間にしか読まれたくない」と立て看板を据えているものも珍しくなかった。現在のネットの常識からすれば馬鹿げてみえるかもしれないが、そういった立て看板がネット文化のひとつとして認められていたのである。「無断リンク禁止」という言葉もあった。「ウェブサイトには大事なものを書いておきたいし誰かに読んでもらいたい。でも、読んでくれて良いのは趣味や境遇にシンパシーを感じてくれる相手だけ。」――そういう意識が露わになっていた。
 
 こうした意識を強化していたのが、どこのウェブサイトにも存在していた「リンク集」である。リンク集は自分に近しい(と感じられる)ウェブサイト主への架け橋であると同時に、趣味や境遇、文脈をシェアしたウェブサイト同士が連携するための結び目でもあった。リンク集は一方通行ではなく“相互リンク”であることが望ましいとされていた。そうしたリンク集が無限に連なり、趣味世界のリゾーム(地下茎)が張り巡らされていたのが昔のウェブサイト世界だった。
 
 そんなウェブサイト世界ゆえに、真実や実話の告白は世間に向かってではなく、自分に近しい価値観の人向けに・文脈を心得た内輪向けになる。「わかってくれる人だけわかってくれればいい。」。2ちゃんねる系のスレッドにしても、真実や実話は全インターネット世界に向けてではなく、スレッド住人同士というこれまた閉じた世界に向けて書かれるのが専らだった。
 
 彼らが他人を意識していなかったわけではない。彼らが承認欲求とは無縁だったとも思えない。しかし、書き手としても読み手としても、あの頃のウェブサイトは狭い範囲を意識・想定した真実(実話)を書き連ねるのが一般的だった。
 
 

「内輪の真実」から「世界に語られる真実」へ

 
 ところが十余年の間に、インターネットは大きく変わった。
 
 現在のインターネットの結び目はリンク集によって編まれてはいない。SNS、検索エンジン、(ニコニコ動画やpixivやはてなといった)各ネットサービス固有のリンクによって繋がっている。リンク集が地下茎のように連なる構図は廃れ、鍵となるポータル・鍵となるアカウントから放射状にリンクが伸びていく構図が優勢になった。
 
 ネットの結び目が変わっていくのと時を同じくして、インターネットの書き手/読み手の意識も変わっていった。「同じ趣味の人間にしか読まれたくない」「無断リンク禁止」といった意識は00年代後半あたりまで一応生き残っていたが、2010年代が進むにつれて物珍しくなっていった。今、そんな事を言おうものなら笑われてしまうだろう。
 
 現在のツイッター芸人やブロガー、ユーチューバ―志望者らは、検索エンジンやキュレーターを介してアクセスが直接飛び込んで来ることを期待さえしている。趣味や文脈を共有した読み手だけを想定している人はあまりいない――控えめに言っても、十年前に比べれば減った。炎上対策や炎上マーケティングも含め、新進のネット芸人達は「世間の誰がみていてもおかしくない」前提で活動している。
 
 意識が変わり、トラフィックも変われば、そこで語られる“真実”や“実話”も変質せざるを得ない。
 
 拙い文体が、ライターやエッセイストのごとき文体に置き換わっただけではない。「わかってくれる人にだけわかればいい」的な打ち明け話は、もっとローコンテキストで、誰でも読み取り可能な打ち明け話へ編集されていった*1。不特定多数の目を惹くなら、本当の話をそのまま書くべきではない。「マクドナルドの女子高生同士の話によると……」テンプレートなどが典型だが、実話をコンテンツに仕上げるための編集や改竄が日常的に行われる。それどころか実話が“創作”されることさえある。「皆に読みやすいかたちにしてナンボ」「不特定多数に理解できるかたちにしてナンボ」なのである。インターネットはメディアとなり、“真実”や“実話”はコンテンツになった。
 
 今日のインターネットにも、真実や実話は流通している。ただ、その内実は2000年頃とは違うし、それをアップロードする人間の意図や意識も違う。もちろん全ての発信者が、真実や実話を編集しコンテンツにまとめあげる技術を身に付けているわけではない。だが、そのような編集の才はたえず求められてはいるし、内向きの打ち明け話を志向する人間は陰でコソコソやるしかない*2。良い意味でも悪い意味でも、誰がみているかわからないという意識が発信者/受信者に浸透するようになった。
 
 

「結び目が変われば意識も変わる」

 
 この文章には、気の利いた結論はない。
 
 ただ、現状を意識しながら十年以上前のウェブサイト網を振り返ると、読み手としてだけでなく書き手としての意識も変容していったのだなぁと詠嘆したくなり、過去にみられた内輪向けの真実や実話のたぐいがリンク集というアーキテクチャに意外と依拠していたんだなぁと気づいたので、とりあえず書き留めてみた。もちろん変化を促したのは結び目だけではなく、単純にネットユーザー総人口が増大した影響などもあるだろうけれども。
 
 ともあれ、ネットの結び目と書き手/読み手の意識の問題は、これから新しいネットサービスが流行するたび振り返っておいたほうが良い気がするので、そのたびこれを読み返してみようと思う。
 

*1:もしくは、ハイコンテキストな読み手にはそれとわかる目配せをしながら、全体としては一見さんでも主旨が読み取れるような打ち明け話に。

*2:稀に、リテラシーの低いユーザーが犯罪自慢のようなことをやって見事に炎上するが