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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「殴って言う事をきかせる」が禁止された社会の「ことば・文字・表情」

 
 昭和五十年代〜六十年代を思い出すと、あの頃はまだ、コミュニケーションの方法として「殴って言うことをきかせる」――つまり狭義の暴力がかなり含まれていた。そして幾らかの社会的コンセンサスが残存していた。
 
 たとえば「体罰」。都市部の進歩的な学校では、体罰なんて昭和の終わりには消えていたのかもしれないけれども、私が育った片田舎では「体罰」は残存していた。小学校の教諭がクラスメートを教室の後ろにずらりと並べ、全員を往復ビンタしてまわるようなことが普通に行われていた。同じことを2015年にやったらとんでもないことになるだろう。しかし誰も問題にしなかったし、先生はもちろん、ビンタをされる私達もそのことに疑問を感じていなかった。保護者やPTAが問題にすることもなかった。教師が児童に影響を与えるにあたって、鉄拳制裁やビンタは「あってもおかしくないもの」とみなされていたのだろう。
 
 学校外でも「殴って言うことをきかせる」はありふれたものだった。中学生は校内暴力に明け暮れ、「○○中学校の学区は危ない」などとよく聞いた。スイミングクラブのインストラクターは竹刀を持っていたし、野球クラブに入ったクラスメートは事あるごとに「けつバット十回」などと言っていた。大人から子ども・子どもから子どもへの「殴って言うことをきかせる」は、コミュニケーションの一手段として暗黙のうちに認められていたと考えざるを得ない。
 
 しかし21世紀を迎え、そうした「殴って言うことをきかせる」的な狭義の暴力は禁止が行き届くようになった。今、教室の生徒全員を往復ビンタしてまわる教師がいたら、大変な問題に発展するだろう。ごく少数の例外を除いて生徒もおとなしくなり、校内暴力は過去のものになった。法の明かりの届かない薄暗がりに飛び込まない限りは「殴って言うことをきかせる」脅威に出くわすリスクは減りに減った。進歩的な人達が盛んに訴えていた「暴力反対!」は、かなり実現したといえる。
 
 それで社会が平和になったのか?
 暴力が減ったぶん、“仲良く”なったのか?
 
 現在、私達が暮らしているのは、人と人とが面と向かって話し合うことを重視し、(インターネットも含めた)文字を使ったコミュニケーションが幅を利かせる社会だ。「いきなり殴られて怪我をするリスク」「鉄拳制裁を受けるリスク」が減ったという意味では、現代社会は平和そのものだろう。
 
 だが、拳骨で人間関係が左右されなくなったからこそ、言葉・文字・表情の巧拙が、よりはっきりと人間関係や序列関係に反映されるようになった。あとはせいぜい、金銭か。「権力闘争の天秤が、腕っぷしではなく首から上と指先の動きに委ねられた」と言っても過言ではない。
 
 もちろんそれらは昔も強力だったし、ときの支配階級は皆それらに通じていた。だが現況は、
 
 1.狭義の暴力が禁止されたがために、言葉・文字・表情は暴力に妨げられることなく、今までよりもおおっぴらにコミュニケーションを司るようになった。腕力を振って構わないのは警察のような国家機構だけだから、言葉・文字・表情にさえ長けていれば、暴力によるカウンターを気にせずコミュニケーションのフィールドを支配できる。
 
 2.そうした、昔なら“一部の社会階層”でしか成立しなかったはずのコミュニケーション状況が、もっと幅広い社会階層にまで浸透してきた。いまや子ども世界の相当部分までもが、狭義の暴力が(手段として)機能しにくくなっている
 
 という点で、過去のどの社会ともかなり異なっている。
 
 もちろん現代でも、誰も目撃しておらず、言葉も文字も届かない暗がりには、陰にこもった暴力行使がみられる。「殴って言うことをきかせる」が社会的コンセンサスを失った以上、もし狭義の暴力が振るわれるとしたら社会の目が届かない場所に限るわけで。しかしそ複数名が監視し得る社会的状況下では、「殴って言うことをきかせる」が消えたかわりに、鞭や拘束具のごとき言葉・文字・表情が飛び交うようになり、かつて「殴って言うことをきかせる」が担っていたであろう効果までカバーしている。
 
 私自身は、人を殴って言うことをきかせる手法に長けていないので、言葉・文字・表情が猛威を振るい、狭義の暴力が失墜している現況をうれしく思う。現代の社会的コンセンサスがそのようになっているから、言葉・文字・表情を駆使してどんどんコミュニケーションしても、とりたてて後ろめたい思いをする必要もない。なぜなら、それが現代秩序だからだ!――力の誇示が社会的コンセンサスを得ていた時代に、腕っぷしを競って力を誇示する人が後ろめたさを感じずに済むのと同じである――。
 
 だが、「殴って言うことをきかせる」が許されなくなったことで、一気にコミュニケーション弱者に落ちぶれた人も多い。
 
 「殴って言うことをきかせる」がコミュニケーションの手段から禁忌に転落した今日、腕っぷしに頼ってコミュニケートしていた人達のそうした長所は、もはや長所とみなされない。まして「短気で」「すぐカッとなって」「他人を強い力で組み敷く」ような人間は、強者というより弱者に近いのかもしれない。「人を殴る暴力性は檻に閉じ込めておくべきです!」。「殴って言うことをきかせる」人間は誰にも必要とされないし、誰もそのような人間に敬意を払おうともしない。社会はそのような人間を必要としていないし、社会はそのような人間をそのまま生かしておこうともしない。あまりにも暴力が甚だしく、コントロールされない場合には、“監獄”か“医療”の枠組みが適用される。人を殴る性質は、今となってはハンディキャップでしかない。
 
 そうやって「殴って言うことをきかせる」派が落ちぶれていった一方で、言葉・文字・表情を使いこなすことに長けた人々――生徒会的な人々とでも言っておこうか――がコミュニケーションの玉座とその周辺を軒並み占拠した。言葉で・文字で・表情で、人を魅了し、人に強制し、人を縛りあげることに長けた連中!優しい言葉を口にしながら、しかし猛禽のような目をした“コミュニケーション戦士達”が、誰を選び、誰を選ばないのか、誰が偉くて、誰が偉くないのかを公然と決めていく。
 
 結局、「殴って言うことをきかせる」が無くなったからといって、人と人とが争う場面はなくならないし、権力を巡るカードバトルにも終わりは来ない。「殴って言うことをきかせる」が禁止されて、確かに個人生活の権力の文法は変わったと言えそうだが、争いと合従の絶え間ない平衡世界が無くなったわけではなかった。