シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「あの人は、気づいてないみたいだけど」

 
 人間同士のコミュニケーション(あるいは情報戦)の精度は、幼児期にはそれほどの差が無い。他者を認知する精度がお互いに低く、それぞれの生まれ持った特徴そのままにコミュニケーションが行われる。「あの人は、気づいてないみたいだけど」は相互発生しやすく、極端な個人差はみられない。
 
 小学生ぐらいになると、「あの人は、気づいていないみたいだけど」の個人差がそろそろはっきりしはじめる。ある一群には明示的な「カッコ悪さ」や「きめの粗さ」が、別の一群にはどうもピンと来にくい……といった出来事がみられるようになる。しかしそうした差異も極端にはなりにくく、ほんのちょっとの出来事やひと夏の経験値が形勢逆転をもたらすことがある。
 
 中学生。「あの人は、気づいていないみたいだけど」があちこちに偏在しはじめる。それはファッションの領域かもしれないし、趣味の領域かもしれないし、コミュニケーションの領域かもしれない。中学生の言語能力でも説明/理解可能な領域では、こうした「あの人は、気づいていないみたいだけど」はすぐさま言語化され希釈される。ところが娑婆闘技場には言語では説明しにくいノウハウや美質がたくさんあり、一般に中学生世界の言語能力は脆弱で感覚に振り回されやすい時期なので、「あの人は、気づいていないみたいだけど」は希釈化されることなく、むしろ自意識や優越感を充たすためのツールとして、語られないまま公然と利用されることが多い。そうした語られざる「あの人は、気づいていないみたいだけど」の日々の積み重ねは、ファッション、趣味、コミュニケーションといった諸領域で大きな個人差をつくりはじめる。だが中学生はまだ若いため、素養上の極端なハンディを持った者でもない限り、逆転の目はどこにでも転がっている。
 
 高校生や大学生にもなると、「あの人は、気づいていないみたいだけど」が自意識ツール・アイデンティティツールとして牙をむく頻度は減っていく。“類は友を呼ぶ”の法則性に従って所属集団や友人集団ごとに均質化されはじめるため、仲間内ではそうした問題を意識しなくて構わないかのような錯覚のうちに暮らせるようになる(こうした棲み分けは、洗練された場所では中学生時代から始まる場合もある)。
 
 そのかわり【一方が気づき/一方が気づかない】という状況を察知する機会も乏しくなるため、ファッションにしろ、趣味にしろ、コミュニケーションにしろ、気付かぬ者は気づかないまま経験蓄積を、鋭敏な者は鋭敏さに応じた経験蓄積を重ねることで、気づきの個人差はいよいよ大きなものとなる。これぐらいの年齢になってくると「気づいているけれども気づかぬふりをする」的なやりとりも常態化しはじめるが、気づかない者にはそうしたステルス性も気づきようがないため、精緻な対人戦を注意深く見守っている人達をよそに、ボンヤリと過ごしていたりする。
 
 社会人になった頃には「あの人は、気づいていないみたいだけど」の問題は、いよいよもって公に語られなくなる。気づかぬ者は気づかぬままに、気づかない経験を積み重ね、そこが経験値ゼロ地帯だとしても、それを教えてくれる人は稀である。エビデンスに照らされ言語的説明の利く分野では問題が解決することもあるが、人間と人間がコミュニケートする娑婆闘技場において、エビデンスとは過去に向かって焼きあがった記念写真でしかなく、不特定多数から集積された統計的データもまた、平均に比べて凹凸だらけの自分自身を操縦するための最適解から遠いものでしかない。しばしば、気づく者は気づき続けてノウハウを積み重ね、気づかぬ者はいつまで経っても気づかないからノウハウの積み重ねが出来ない、という状況が果てしなく繰り返され、個人差はいよいよもって埋めがたくなっていく。ただしこれぐらいの年齢になると、気づかぬ者も気づかぬなりの処世術を構築し、落ち着いた生活にたどり着くことも多い。
 
 40〜60代を観察している限りでは、「あの人は、気づいていないみたいだけど」の差異は修正不可能なほど大きくなっているようにみえる。しかしこの年代においては、気づいている者は気づいている者なりに慎重に、気づいていない者は気づいていない者なりに快活に行動しているさまが多くみられ、気づいているからといって強いとは限らない。あれこれ気がつかず、あちこちで行動の粗さを露出しているからといって弱いとも限らない。気づきが欠けているけれども経済力や社会的立場を手に入れている中年〜老年世代が、これでもかというほど気づきの乏しさをひけらかしている場面にはよく遭遇する。諸々に気づき、経験を積み重ねてきた者はやはり有利だが、これぐらいの年齢になると積み重ねられてきた資本力や社会的立場がモノをいうわけで、気づきの有利さには翳りがみえ、神経の摩耗と社会的立場の変化に伴って没落していく者もいる。逆に、ある時期までは気づきによってアドバンテージを得ていた者が、資本力や社会的立場によって(あるいは加齢によって?)気づきを捨てて行動が粗くなり、それぐらいでちょうど良い、という人も多い。
 
 ともあれ「あの人は、気づいていないみたいだけど」という気づきの差異、気づいている者達の目配せと気づかぬ者達の無感覚の繰り返しは、人生全般・社会全般に観察される。人間同士は、意識的にせよ無意識にせよ、わずかな認識の差や言動の差を利用してやろうと虎視眈々と見計らっているため、そうした気づきを巡る情報戦には果てが無く、何歳になっても終わらない。そして「ただ気づけば良いというものでもない」。
 
 ここまで書いてきたとおり、自分と他人をどのような解像度で認識できるのか・できないのか(できたとしてどこまで視るのか)は、生きていくうえで重要な要素だが、じつに秘術めいている。万が一、そうした秘術がエビデンスの明かりに照らされたとしても、次の瞬間からは、明るみになったエビデンスを周知の一条件として利用することを前提としたコミュニケーションの戦場が立ち現われてくるだけなので、気づきの秘術は娑婆闘技場からなくなりそうにない。しかし、それは確かに存在している、あの人は、気づいていないみたいだけど。