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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

自分の欲望を見極める方法を考える

執着

 
 自分の欲望をしっかりと見極める、のは難しい - (チェコ好き)の日記
 
 リンク先には、自分の欲望を見極めるのは難しい(とりわけSNS時代以降は)、と書かれている。
 

 他人とのコミュニケーションは、最新のゲームでも、名作といわれる映画でも、どんなものでも勝てない最高の娯楽です。「つながりたい」が本来的な欲望としてあったからこそ、いろいろなSNSやつながるためのツールが発達したのではないでしょうか。

http://aniram-czech.hatenablog.com/entry/2015/06/14/112742

 たしかに、承認欲求や所属欲求に勝てる人はまずいない。レストランも絵画も深夜アニメも、本当に自分が楽しんでいるのか、それとも世間やコミュニティで評判の高いものをなぞって楽しいと思いたがっているのか、実際にはわからないし後者のウエイトはどうしたって消えやしない。
 
 ただ、それがいけないわけでもなかろうし、他人の評価をコピペして身に付くものも捨てがたいように思う。いわゆる“趣味人”にしても、最初から自分の欲望だけに忠実に生き続けてきた人はいないはず。先輩格の趣味人の考え方を材料として自分の欲望を積み上げる部分もあるだろうし。
 
 もっと遡って考えると、人間の欲望、とりわけソーシャルな欲望は、自分を取り囲む環境で形づくられるものだ。「他人の欲しいものが欲しくなる」とは、なにも思春期にはじまるわけではない。欲望は、母子関係や父子関係、幼稚園や保育園のコミュニティ、小学校の友達関係などを通じて練りに練られていく。20世紀以降はマスメディアやインターネットの影響からも逃れられない。だから「私の欲望は100%自家製でございます」などという人がいたら、まあ、嘘つきなんじゃないかなと思う。「自分の欲望は他人の欲望か否か」を0か100かで問うても意味はない。
 
 冒頭リンク先で問われている「自分の欲望をしっかり持つ」とは程度問題であり、「自分の欲望の手札がどの程度他人にハックされやすいか、ハックされにくいか」ぐらいの話だと私は思っている。先天的にも後天的にも、人間が「自分だけの欲望」でストレートフラッシュをつくるのは難しい。でも、欲望の手札のなかにオリジナリティの高いワンペアを持つぐらいなら、出来なくもないかもしれない。一枚ぐらいジョーカーをしのばせている人もいるかもしれない。そういったオリジナリティのワンペアやジョーカーをこっそり愛しながら生きていくぐらいの自由はあってもいいんじゃないか――私はそんな事をよく考える。
 
 

「自分の欲望」のワンペアを見つける方法を考える

 
 で、「自分の欲望」を見つけ出す方法について、チェコ好きさんは既にひとつの方法を書いていらっしゃった。
 

「他人とつながる」ことが原因で自分の欲望がわからなくなってしまったのだから、単純にその逆をやればよいのです。つまり、「つながり」を断てばよい。1週間くらい、それが難しければ1日でも、インターネットに接続しない。SNSのことを忘れる。パソコンやスマホに触らない。
(中略)
 日常生活を送りながらこれをやるのはけっこう決心がいるし、場合によっては支障も出るかと思うんですが、旅行中だとわりと苦もなく実行できます。我ながら、旅行のあとはスッキリした顔で帰ってきてるなあ、と思います。

http://aniram-czech.hatenablog.com/entry/2015/06/14/112742

 
 旅行は本当に良いと思う。意想外のものに出会い、想定していない人と想定していない事を喋るから。「旅行を欲望すること」自体は他人の欲望だけど、それでも旅先には未知が横たわっていて、未知と巡り会った自分自身の反応のうちに自分の欲望が見え隠れする。旅行は、未知との遭遇であると同時に、ふだん気づきにくい自分の欲求を掘り起こす作業でもある。
 
 ネット好きな人間として旅行に近い「自分の欲望掘り」をもうひとつ挙げなら、それはオフ会かな、と思う。
 
 初対面の相手とのオフ会には、ある種の緊張とリスク、コストが伴う。そのかわり喜びや発見も大きい。インターネットで勝手知りたる相手でさえ、直接会ってみればサプライズは免れないし、そのサプライズに出会った時の自分自身の反応がまた面白い(恐ろしい時もある)。
 
 他人は、それがメディア越しに不特定多数に流通してしまえばコンテンツかもしれないけれども、面と向かった他人はコンテンツとして割り切れる存在じゃない。相手に好かれようと躍起になってしまうのでない限り(それか相手がこちらに好かれようと躍起になり過ぎていない限り)、そこには何かしら、その初対面の相手と自分ならではの間-主観的な化学反応がおこるわけで、その化学反応のありさまは(精神病理を含めた)私というものを知る手がかりになる*1
 
 これは、精神科医だからそう考えるのかもだけど、それ以外の人だってなにかしら勘付く点はあるはずだ。「どうして私はこの人に好感を持つんだろう?」「どうして私はこの人と意気投合するんだろう?」「なぜ、あの人ではなくこの人に?」……と考えると、人間関係は、そのまま自分の欲求を映し出す指紋とみえるはずだ。人間関係とその取り結びは、一人として同じ人間はいない。コピーしようと思ってもこればかりは模倣できない。
 
 

「オタクをやる」ってのも良かったんだと思う

 
 あと、これも旅行と重複する話かもだけど、他人のまなざしをなるべく避けた場所に籠って、そこで自分の嗜好を探るのは良い方法じゃないかと思う。
 
 メディアで評判のコンテンツを選ぶ(選ばされる?)時、どこまで自分の欲望で他人の欲望なのかを区別づけるのは難しい。でも、誰も評価していない領域・不特定多数のまなざしが侵入していない領域なら、そういう“他人圧”は(相対的に)少ない。
 

オタク学入門 (新潮OH!文庫)

オタク学入門 (新潮OH!文庫)

 

 思春期に入っても、オタクの判断力は衰えない。マスコミが作った「ダサい大人じゃなく、かっこいい若者のファッションはコレだ!」なんていう、若者文化・サブカルチャーには欺されないのだ。彼らはターニングポイントである10歳から15歳の時点で、大人文化という形にも惑わされないし、思春期になっても、若者文化という形に惑わされない。結果として、いわゆる「あてがわれた文化を追いかける、消費者としての若者層」に入りきれないので、今までマーケッター達も分析できなかった。オタクとは自分で自分の好きなものを判断する、早熟で知的な存在なのだ。

 岡田斗司夫『オタク学入門』新潮文庫版、2008、P58より抜粋

 この“宣言”も今となってはあれこれ思うところだけれども、さしあたりマイナーニッチなオタク界隈に他人のまなざしがあまり侵入していなかったのは事実だと私は思う。
 
 もちろん「テレビに騙されている連中とは違った私」「自分の好きなものを追いかけている私」といったかたちの自意識の悦びはあったし、オタク同士の優越感ゲームも健在だった。しかし、そうやってまなざしの快楽を盗み食いするとしても、どういうアニメを選ぶのか・どういうアイテムを蒐集するのか・どういうエロゲーで“抜く”のかといった個別の選択肢は依然として存在していた。そこは不特定多数に発見されていなかった。なにより――これは男性オタクとして思うことに過ぎないのかもしれないが――異性のまなざしに照らされていない世界だった。ジャンル全体の作品数が少なめで、個人の力でもジャンル全体に目配りしやすく、他人の批評にあまり頼らなくて済んだのも良かった。私のような未熟者でも他人のまなざしから比較的自由になりやすい環境が揃っていたと思う。
 
 じゃあ今日、他人のまなざしから自由に嗜好を追いかけやすい環境・ジャンルがオタク界隈に残っているかというと……スッと思い浮かばない。本来なら「小説家になろう」や「pixiv」がそれに該当するのかもだけど、今日のネットサービスは承認欲求をモチベーション源としてユーザーを駆り立てるシステムをがっしり組み込んでいるので、他人のまなざしに目を瞑って自分だけの道を歩むのは、なかなか大変だと思う。
 
 [関連]:オタク界隈という“ガラパゴス”に、“コミュニケーション”が舶来しました - シロクマの屑籠
 
 もし、現代の愛好家が「自分の欲望を見極める」方法があるとしたら、ネットサービスの都大路・他人のまなざしの十字砲火から距離をとった場所で自分自身を点検するしかないんじゃないか?――私はつい、そのように考えてしまう。
 
 大勢のまなざし・大勢の批評がこだまする場所では、「自分の欲望」のキイキイ声は微かにしか聞こえない。これも「旅行に出る」と同じかもだけど、オフラインで書き物をしてみるとか、ウェブサイトに引きこもってみるとか、「自分の欲望」のかすれ声を聞きとりやすい場所で聞き取ってやらないと、たやすく自分自身を見失ってしまうのではないかと思う。まあ、他人のまなざしに左右される度合いは人によってさまざまで、どこにいても自分の欲望の太鼓にあわせて行進する人もいれば、独りで籠っている時でさえ他人のまなざしにとらわれ続けている人もいるから、これも程度問題でしかないけれども。
 
 そのような私だから、思春期のある時期にマイナーニッチの趣味生活に浸っていられたのはかえって良かったのだと思う。顧みれば、私はオタクだったから自分自身の欲望を見失わずに済んだのかもしれない。もう少し慎重な物言いを心がけるなら、他人の欲望にマニピュレートされる度合いが低くて済んだのかもしれない。この点に関する限り、私が思春期だった頃のインターネットが未成熟だったのはラッキーというほかない。
 
 シレジウスの言葉に「薔薇はなぜという理由もなく 咲いている。 薔薇はただ咲くべく咲いている。 薔薇は自分自身を気にしない。 人が見ているかどうかも問題にしない。」とある。でも、ただ咲くべく咲いていられるのは野薔薇のたぐいだけで、市場の店先に並ぶ薔薇はそうもいかない。野薔薇のようになりたいなら、自分が野薔薇になれる場所をきちんと探すべきだと思う。あるいは方法を。
 
 

「自分のために書く」ならやっぱりブログかな

 
 あと、これはインターネットに文章を垂れ流し続けていて思うんだけど、ブログやウェブサイトで「自分のために書く」時間は、「自分の欲望」の確認にどこか通じているんじゃないのかな、と思う。完全ではないけれども、たぶん有効な手段のひとつだ。
 
 ブログにもいろんな書き方があり、私はこのブログの第一読者を「未来の自分自身」と想定している。もちろん全部の記事がそうだというわけでなく、不特定多数に“読んで頂く”ことを優先としている記事もある。けれども半分ぐらいは「自分自身のもの」にしておかなければ気が済まない。幸か不幸か、ここは「はてなダイアリー」なので、そのような使い方にはお似合いの場所だ*2。いつも私は過去の自分が書いた文章を読んで面白がり、未来の自分に向けて現在を書き残している。うまく言えないんだけど、こうやってブログを書き続け、読み続けるのも「自分の欲望を見極める」助けになっている気がする。
 
 リンク先のチェコ好きさんは、

 私は「一度進んだ時計の針は、二度ともとに戻すことはできない」という思想の持ち主なので、情報断食みたいな行ないを(私はマッサージだと思ってたまにやりますが)あんまり人に積極的にオススメしようと思えません。そこまで効果がある行為だとかんじないからです。

http://aniram-czech.hatenablog.com/entry/2015/06/14/112742

 
 と書いておられるけれど、この点に関する限り、私は違った風に考え行動していると思う。ブログが流行してもウェブサイトにしがみつき、SNSが流行してもブログにしがみつく。時計の針は戻すことはできないけれども、ゆっくり進めることはできる。あるいは一か所か二か所だけ、時計の針がゆっくり進む場所を確保したって構わない。それは、今日でも失われていないインターネットの使い方のひとつのはずだ。そして自分の居場所や言動はライフスタイルや考え方にはっきり刻印される。どんな塵も、積もればかならず山になる。
 
 実際、ウェブサイトやブログと同じことをtwitterでやろうと思っても、私はなんだか上手くいかない。文字数が少ないせいか。タイムラインという仕組みがいけないのか。ブログやウェブサイトに書き綴るほうが、この点ではずっと都合良い。twitter、は他の用途に使うべきなんだろう。
 
 手首が痛くなってきたのでこのあたりで。
 
 私は「自分の欲望」を見極める作業は面白く、やり甲斐があって、それ自体がちょっとした宇宙探索だと思う。だって、自分の欲望って解像度をあげて知ろうとしてもきりがないでしょう?全部把握しなくても構わないし、把握できるものだと思ってかかるべきでもない。でも、なるべく知ってみたいものではある。私はそのための時間はケチりたくない。
 
 もし、ブログやウェブサイトに「書く」という方法に難があるとしたら、自分の執着*3丸出しでいけないこと、ブログやhtmlのメディアとしての性質にどうしたって引っ張られてしまうことぐらいか*4。それでもロールシャッハテスト並みには自由なルールだと思う。
 
 

*1:こういう、トラックバックを介したブロガー同士の通信もそれに近いと思う。このエントリを全部書き終えた/読み終えた後に起こる間-主観的な気持ちの変化は、ブロガーとブロガーの組み合わせやテーマの組み合わせによって千差万別、ひとつとして同じものがない。そういった経験を積み重ねるうちに、自分がどんな人にどんな願望を抱きやすいのか探っていくのも、ブログの楽しさのひとつかも。

*2:ログをエクスポートできるのもはてなダイアリーのダイアリー的なアドバンテージだ。はてなブログへの移行を立ち止まらざるを得ない理由のひとつは、はてなブログにエクスポート機能が無いことだ。「ブログという自分史」を外部にバックアップできないのは、とても心配なことだ。

*3:もう、欲望という言葉を使いたくなくなってきた:やっぱり自分で使うなら「欲求」か「執着」がいいですね

*4:でも、それを言い出したら「日本語で考えている時点で言語に引っ張られているじゃないか」みたいな話になるので、ここではあまり深く考えないことにします