シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

結婚と承認欲求/所属欲求

 
 Together 〜だれにも言えないこと〜 BS-TBS
 
 ゆうべ、酒に酔った目をこすりながら上記番組を眺めていた。
 
 結婚したい/したくないについて色々な事を言っていた。経済的な理由や老後のことなど、いかにも挙げられそうな結婚のメリットと、独りでいたい・責任を持ちたくないといった、これまたいかにも挙げられそうなデメリットが語られていて、出演者の尽力によるものか、淀みなく番組は進行していった。
 
 ただ、結婚をめぐる願望について、何か歯に挟まったような、(私には)すっきりしない表現が飛び交っていると感じた。
 
 「群れていたい」「独りではいたくない」という欲求は、ここには無いのだろうか?みんな、誰かと群れたいとは思わないのか?「群れていたい」欲求を照らし出す表現の少ない番組構成に、私は微かな苛立ちを感じていた。この欲求があまり言及されないのは、想定視聴者がそうだからなのだろうか?
 
 所属欲求よりも承認欲求が優勢な現代では、結婚とは、自分と他人の境目を曖昧にしていたい欲求や群れていたい欲求によらず、「あくまで個人にとって経済的・情緒的メリットが大きい選択」であったり、「自己の思い浮かべる理想の生活やイメージを強化するための一手段」であることが、暗黙の了解なのかもしれない。個人主義的生活観を補強するための手段として結婚が考慮されることはあっても、個人主義的ライフスタイルをうっちゃったり、敢えて弱めてしまったりすることは考えられていないのかな、と、番組を眺めていて私は思った。
 
 しかし、人は本当に個人主義的に結婚するしか無いのだろうか?結婚とは、個人主義的ライフスタイルを補強するための手段でしか無いのだろうか?そして個人主義的ライフスタイルを結婚によって補強することが、幸福への近道なのだろうか?
 
 私はだんだん番組と関係の無い方向へ……承認欲求と所属欲求、個人的に心理的欲求を充たすことと、自分と他人の境界を曖昧にしながら心理的欲求を充たすことについて思いを馳せていった。
 
 現代の、特にテレビやインターネットによって喧伝されるライフスタイルは個人主義的で、承認欲求-充当的なものが多い。しかし、現実の人間は個人主義的な承認欲求だけをモチベーションとしているとは限らない。誰かと群れ、自分と他人の境界を曖昧にすることによっても、人間は心理的に充たされることがあるし、ほんの百年ほど前までは、どこの農村でもそうした所属欲求のほうが優勢なぐらいだった。そもそも、協同生活しなければ生存できない昔の環境では、所属欲求よりも承認欲求を優先させるようなメンタリティではストレスが溜まりすぎて生存できなかったはずだし*1、個人individual という概念も外から入ってきたものだった。
 
 家族とは、夫婦の間であれ、親子の間であれ、個人主義的な承認欲求のロジックだけではどうやったってギスギスする――私はそう思っている。belong to each other しないで夫婦は夫婦たり得るのだろうか?親子はマトモに繋がれるのだろうか?私の周囲でまずまずうまくやっている家族を思い出す限り、承認欲求だけで駆動している家族は思い浮かばない。それとも、これは地方都市ではメジャーなパターンでも、大都市圏では珍しいパターンなのだろうか?承認欲求という個人的な心理的欲求を携えただけの二人でも夫婦や親子の絆を維持できるようなライフスタイルが、大都市圏にはあるのだろうか?
 
 こちらでも仄めかされているように、今日、個人主義的であることは、単なる主義の問題ではなく、実利や社会適応に直結しているため、所属欲求よりも承認欲求のほうが優勢な人間が「有利」だというのはわかる。しかし人類史を振り返る限り、それは新規すぎるなにかであり、想定されていなかった状況であり、程度が過ぎればバランスが崩れやすいのではないかと私は疑う。まして、結婚し家庭を築く段階になっても承認欲求のロジックで専ら考え、それでどれだけの男女が結びつくのか、かりに結びついたとして結びつきを維持・強化していけるのか、私にはよくわからない。所属欲求が圧倒的に支配的だった遠い昔の社会が偏っているのと同じぐらい、承認欲求が圧倒的に支配的な、今日のある種の暮らし向きもまた、偏っているのではないだろうか?ここでも“過ぎたるは及ばざるがごとし”が適用できるのではないだろうか?
 

*1:しかし、当時は、良きにつけ悪しきにつけ所属欲求を充たすための“トレーニング”が今よりもずっと高頻度に施されていたはずである。