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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

操作-被操作の戦場としてのインターネット、コミュニケーション

 
 昨日の話の続きとして。
 
 先日の騒動では、未成年のネットユーザーが不適切に動機付けられる危険性が浮き彫りになっていた。
 
 しかし一般論としては、そういう危険性だけ意識すれば良いわけではない。現実のインターネットをみていると、なんらかの目的を持った発信者によって視聴者が動機づけられ、操られることも多いわけで、「視聴者が発信者を動機づけて操る」と「発信者が視聴者を動機づけて操る」の両方が問題になり得る。
 
 発信者側が視聴者を動機づけて操ってしまう最たる例としては、ある種のまとめサイト、アルファブロガーやアルファツイッタラーなどが挙げられる。彼らは視聴者の考えを塗り替えたり、何かを欲しいと思わせたりする。人によっては、憎しみや嫉妬、不安を煽ったりすることもある。視聴者が彼らから受ける影響のひとつひとつは微小かもしれないが、連日連夜にわたって影響を受け、クリックやタップを繰り返す行動蓄積は馬鹿にしたものではない。なにより、不特定多数を相手取っている場合には、一日やそこらでも“塵も積もれば山となる”。
 
 そうした二方向の動機づけが相互作用していくさまは、いわゆる炎上ブロガーを眺めると理解しやすい。
 
 炎上ブロガーは、視聴者の“何かひとこと言ってやらずにはいられない”欲求を駆り立てるすべに長けている。というより、そうした欲求を駆り立てるすべに長けていなければ彼らはPVを維持できない。炎上ブロガーは視聴者に潜在している“何かひとこと言ってやらずにはいられない”欲求をこじ開け、不特定多数にリアクションをとらせることで知名度やアフィリエイトといったメリットを享受している。
 
 と同時に、炎上ブロガー、または炎上ブロガー予備軍な人達は、視聴者のリアクションによって影響を受け続けている。PVの流入は炎上ブロガーやその予備軍を勇気づけ 、更なる炎上へと動機づける。炎上に旨味を感じるようになったブロガーは、視聴者の“何かひとこと言ってやらずにはいられない”欲求を駆り立てるモチベーションを煽られ、かくして、視聴者とブロガーとの共犯関係はポジティブフィードバックの環をぐるぐる回る。
 
 典型的な(そして成功した)炎上ブロガーの場合、発信者と視聴者の影響/被影響性の問題は一方向的ではなく、双方向的、あるいは共犯関係的だ。
 
 ここでもう一度思い出していただきたいのは、先日の事件についてのtogetterだ。
 
 このtogetterのタイトルにも「共犯関係」という言葉が記されている。この騒動の場合、発信者が未成年で金銭援助をしたのが成人なので、「成人が未成年をカネで動機づけて操作した」という理解が一般的だろう。しかし仮に、成人した発信者によって騒動が引き起こされていたらどうなっていただろうか?
 
 例えば、22歳女性や30歳男性が見知らぬ誰かから金銭援助を得て事件を起こしたものだったら……発信者と視聴者の関係を、私達はもっと違った角度から理解していたのではないか?
 
 現在のインターネットでは、銀行口座を公開しパフォーマンスで投げ銭を誘う発信者も珍しくない。彼らのパフォーマンスが好奇心を刺激するのか、悪意を集めるのか、哀れみを催すのかはともかく、それはそれで視聴者に影響を与え、動機づけを成立させているのもまた事実だ。発信者と視聴者はお互いに影響を与え合い、お互いを動機づけあっている――そう理解したほうが辻褄のあうケースのほうが多い。
 
 くだんの事件でも、15歳少年はパトロンのことを「超越者」と呼んでいたという。そういう煽てがどこまで成功していたかはさておいて、少年の側にもパトロンをさらなる出資に動機付けようとする意志があったのは間違いないだろう。
 
 

インターネットはコミュニケーションの戦場だ

 
 だから私は、インターネットで繰り広げられるコミュニケーションは、モチベーションや欲求を巡る戦場みたいなものだと理解している。
 
 コミュニケーションという言葉からは、協調関係や空気の読み合いを連想する人が多いかもしれない。だが実際のコミュニケーションはそういう優しげな要素だけで構成されているわけではない。コミュニケーションの対象が自分*1にとって都合が良い行動をとってくれるよう、モチベーションや欲求を修正しようとする不断の試みが含まれている。不特定多数を相手取ったオンラインのコミュニケーションでも、親しい2、3人とのオフラインのコミュニケーションでも、そうした意図が含まれていないコミュニケーションはあまり多くない。
 
 だから、さきに挙げた炎上ブロガー周辺の人間模様ほどわかりやすくはないにせよ、私達はコミュニケーションを介して、ある部分までは他人にモチベーションや欲求を操作されているし、ある部分からは他人のモチベーションや欲求を操作している。どこまで操作し/操作されるのかは個人差があり、まさにその個人差が問題になるのだが、ともあれ、なんぴとたりともそうした相互操作・相互影響の輪から逃れられない事だけは確かだ。
 
 そして自分では誰かを操っているつもりが実際には操られていたり、お互いを操りあった結果としてお互いを貶めあっているケースも珍しくない。コミュニケーションにはそうしたリスクと可能性がついてまわるが、社会的生物たる人間は、同族とのコミュニケーションを避けては生きていけないのだ。
 
 インターネットが登場する以前、不特定多数を相手取ったコミュニケーションは、マスメディアがほぼ独占していた――「マスメディアが視聴者を動機づける」という一方向的な流れがまずあって、それを支えるかたちで視聴率や読者アンケートといったものが機能していた。しかしインターネットが登場し、そのインターネットに専らコミュニケーションを頼るようになった人達がたむろしている領域では、動機づけを巡る関係性は一方向ではあり得ない。ネットでは、全ての人間が発信者でもあり視聴者でもあり、動機づけする側であると同時に動機づけされる側でもある。
 
 トップダウン的なマスメディアからはみ出したネットユーザー達が辿り着いたのは、煽り合い、影響を与え合い、ときには賢く、ときには愚かに、お互いに影響を与え合う世界だった。“口コミ”と言えば聞こえはいいけれども、お互いが影響性と被影響性でしのぎを削りあう戦場でもあった。ネットユーザーは皆、自由選択の権利を与えられたつもりでいるが、コミュニケーションのネットワークには他人を動機づけようとする意志と能力が満ち溢れているから、本当はそんなに自由ではない。少なくとも、ボヤボヤしていると他人にモチベーションをハックされてしまう。
 
 だからといって、インターネットをやめるなど現代人にはまず無理だろうし、やめるべきでもない。だから私達はせいぜい、自分がどこからどのように影響を受けているのか・自分がどのような影響を与え得るのかを折に触れて振り返り、まずい点に気づくたびに軌道修正をかけていくしかないのだろう*2。逆に言うと、そうした振り返りと軌道修正ができる人間こそが、安全かつメリットの大きなネットユースに辿り着くのではないかと思う。
 

*1:または自分達

*2:断っておくと、「影響を受ける=悪い」わけではない。「悪い影響を受けている」状態が悪いのであって、好ましい影響の受け方とみなされる場合は、あえて影響を受け続けるという判断もあり得るだろう