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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

四十才、夢から醒めて、逃げ場無し

執着

 
 誰も教えてくれない本当の「おじさん」になる方法 - ぼくらのクローゼット
 
 不定期ですが、リンク先に寄稿することになりました。“不惑日誌”らしく、おじさん話をしようと思ってます。脱-オタクファッションの行き着いた果てや、ファスト風土のおじさんの話もしたいところですね。
 
 それはさておき、こちらは自分のブログなので、勝手気儘に垂れ流して構わないでしょう。
 
 不惑。
 
 びっくりしましたよ、こんなに逃げ場の無いものだなんて。これまでの積み重ねの延長線上として現れた“現実”がどこまでも広がっていて、それがセカイを構成しているんですよ。かつて私は、“現実が追いかけてくる”と連呼して非モテの人達をうんざりさせていましたが、当時、私が言っていたことは四十にして証明されました。やっぱり追いかけてきましたよ、“現実”が。
 
 しかし、私が言っていた“現実”とは、空想的なもの言いでした。良い現実もあれば悪い現実もあり、ラクな現実もあれば塗炭の苦しみもある……そんな風に考えていましたが、それほど単純ではなかったのですね。
 
 結局、結婚した者には結婚した者の“現実”が到来し、子育てを始めた者には子育てを始めた者の“現実”が到来したのでした。未婚のまま四十才を迎えた者には、未婚のままの“現実”が到来しました。ある者は孔雀のように派手な“現実”を生き、ある者はヒトデのような“現実”を生きています。
 
 ひとつひとつをラクだとか、良いだとか、そういう事を言いたいわけではありません。そうではなく、
 
 ・どの“現実”にも相応の苦悩があり喜びがあること
 ・どの“現実”を迎えた者も精一杯生き、生きざるを得ないこと
 ・結実した“現実”をひっくり返すのは至極困難なこと
 
 これらはほぼ全員に共通し、一般的な手法ではこの“現実”から逃れられない事が、私にはどこか驚きだったんですよ。事故や病気で強制退場を食らう可能性はあるにせよ(それも現実だ!)、そうでない限り、これまで為してきた事の延長線上としての“現実”ががっちりと食いついてきます。もう、他の可能性や世界線を夢想できるものではありません。
 
 驚くような事じゃないって?
 でも、私は驚いてしまったのです。
 なぜ、驚いたのか?
 私は、自分が夢を見ていたのだと気づきました。
 
 ある時期までの私は、口で“現実”“現実”と言いながらも、自分自身や他人に夢や可能性を観ていたようなのです。それは思春期的なメンタリティとしては、間違ったものでもなかったと思います。Aを選びたくなくなったらBを、Bでも駄目ならCを選べる未来。もしかしたらDが待っているかもしれない未来。そういう未来がこれからも続くと思っていました。Tomorrow never knows.
 

TOMORROW NEVER KNOWS

TOMORROW NEVER KNOWS

 
 でも、不惑が近づくにつれて露わになってきたのは、AならA、BならBを選んだら、CやDには変更できないということでした。世界線の改変可能性が高かったのは、数年前ぐらいまでだったのですね*1
 
 親でも先生でもなく、自分自身がこれまで敷いてきたレールの延長線上で、私は生きていかなければならない。成功も失敗も、喜びも悲しみも、自分の敷いたレールの上で起こるでしょう。私の“現実”を大きく改変する夢をみることは、もはや許されません。明日はもうここにあるのです。ここで生きていくしかないのです。
 
 もし「ここではないどこか」を想定するとしたら、それは人生の破滅か、病気や事故による脱落でしょうから、そのような事態にも備えなければならなくなりました。健康な肉体、壮健な精神といったものは、もう無料ではありません。どんなコストを支払ってでも、生にしがみつかなければならない。
 
 こうした“現実”の輪郭を目の前にして、私は「へぇーーー!」と驚かずにはいられませんでした。二十代や三十代だってしんどかったし、危なかったけれども、“現実”は夢のオブラートに包まれていて、さほど焦点を合わせなくても済むものでした。今日も、明日も、明後日も、“未来”の甘い匂いに包み込まれていたのです。
 
 ところが今はそうではなく、夢のオブラートに包まれているのは“過去”ばかり。それでも“現実”を生きなければならないのです。私の“現実”がかたちづくられた一端は、結婚し家庭を持ったからだとは思いますが、じゃあ独身だったら“現実”のお迎えが来なかったのかと言ったら……その場合には、独身の不惑という一味違った“現実”が、これまた容赦無い解像度で現れていただけでしょう。選択の良し悪しは、私には判断のしようがありません。ただ、どちらの場合でも、自分が敷いてきたレールによって“現実”が fix されていたのは間違いありません。
 
 あの、誰もが羨むような、孔雀が羽を広げたような四十歳を迎えている人だって、あの孔雀の羽先ひとつひとつを“現実”の重みとして支えながら生きているのでしょう。孔雀だからといって、簡単な人生だとか、安全地帯な人生だとか、私には想像することはできません。ライオンだって、バッファローだって、同じぐらい重たい“現実”を生きている。
 
 私よりも年上のおじさんやおばさんは、みんな、そうやって生きていたのですね、ごまかしのきかない“現実”を。年長の人を見る目が、少し変わりました。自分自身を観る目も変わりました。どうあれ、私も精一杯生きるしかありません。
 
掌 / くるみ

掌 / くるみ

 

*1:このあたりは個人差があるはずで、三十代に入った程度で世界線の改変可能性がほぼ無くなる人もいるでしょう。むしろ私のそれは遅すぎたぐらいです