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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

自由人には「自分には先読みできないことが沢山ある」認識が不可欠

汎適

 
 皆さん、自由な個人主義社会を満喫していますか?
 
 誰もが個人の判断で人生を紡ぐ。素晴らしいことだと思います。誰かに指図されるまま生きなければならないより、気分の良いことではないでしょうか。現代の日本人の大半は、自分で趣味を選び、職業を選び、どのような人生を歩んでいくのかを自己決定できます。相応の能力さえあれば、ですが、選択の自由を妨げられることはあまりありません。
 
 ただし。自由な境遇を手放しで喜んでもいられません。“自由選択でさえあれば幸せになれる”などと思い込んで構わないのは、自由そのものが目的化している自由至上主義者(それとも自由原理主義者?)ぐらいなもので、そうでない大多数の個人にとって、自由とは油断ならないものでもあります。
 
 自己判断や自己決定が尊重されるようになったということは、自分の判断ミスや決定ミスもそっくりそのまま自分自身に跳ね返って来る、ということにほかなりません。ということは、判断ミスや決定ミスを繰り返すしかない人は、自由な社会では果ての無いスパイラルに陥るしかないのです。もちろん、十分過ぎるほど自由な社会では、そうしたミスのスパイラルを誰かのせいにすることもできません――「だって、あなたが自分で決めたことなんでしょう?」
 
 他方、判断力や思慮に恵まれている人は、その判断力や思慮に優れているぶんだけ自由を生かせそうです。コミュニケーションを有利にこなせるなら尚更でしょう。自分の言動や決定がそのまま自分自身の「成果」として受け取れる優秀な人は、己の判断に全てを委ねてしまえば自由の恩恵を最大限に享受できるようにみえます。
 
 

どんなに優秀な人も、年齢や立場を超えて生きてみることはできない

 
 でも、抜きんでて優秀だからといって、一体どこまで自己判断や自己選択を恃みにしていていものでしょうね?
 
 だって、所詮は人間の浅知恵ですよ?老後はおろか、五年先まで予見して行動できる人間がどれぐらいいるというのですか。
 
 経済的な見通し・災害への備え・将来消えてなくなりそうな職業予測――そういったものを見通すのも大変ですが、私が特に難しいと思うのは、自分がもっと歳を取った時にどんな気持ちになるのか、どんなものを欲しいと思い、どんなものを煩わしいと思うのかを、先回りして見抜くことです。
 
 例えば、諺に「親の心子知らず」とありますが、実際、子どものうちから親の考えていることが手に取るようにわかるって、あり得ないじゃないですか。もちろん子どもの立場や推測能力からでも親の気持ちをある程度は類推できるし、そうした類推が的外れと言いたいわけではなりません。それでも、育てられる立場から育てる立場に鞍替えしてみなければ見えてこないこと・気付かないことも沢山あって、十代後半〜二十代前半の単身生活者には想起することもかなわないような事物がいろいろあったりするわけです。
 
 同様に、二十歳の身体壮健で伸び盛りな男女に、四十歳の中年の境遇、六十歳の老年の悩みがわかるものでしょうか。二十歳の立ち位置からでも気付き得る部分はあるでしょうけれど、実感を伴うかたちで、我がこととしてそれを受け取るのは、やっぱり実年齢が近くなってからだと思うんです。
 
 どんなに優秀な人間でも、子どものうちから親の心理は読み取りきれません。どんなに頭脳明晰な若者でも、二十代のうちから四十代や六十代の欲求や懊悩を我が物として生きることなどできはしないのです。「健康のありがたさは失ってみてはじめてわかる」などもそうですが、世の中には“なってみないと実感がわからないこと”がいっぱいあります。
 
 だから、現今の判断(材料)だけに従って生きようとする人、とりわけ手許の判断材料だけで判断する優秀性に自惚れているような人は、危ないんじゃないのかなって思うんです。「今」に恃んでいるところが大きく、なまじ上手くいっているからこそ、現在というものに縛られやすく、現在の年齢・立場に最適化し過ぎてしまうのではないでしょうか。そして、将来の肉体的にも心理的にもかけ離れているであろう自分自身の不可知性に対して、備えることを忘れてしまうのではないでしょうか。
 
 かつて人間を不自由にしていた因習や慣習は、この点では優れていました――この年齢になったらこれをやりなさい・この立場になったらあれをやりなさい的な束縛があったかわりに、自分自身の判断力では予測できないファクターを制度が勝手に補ってくれていました*1
 
 ところが現代人には、自分自身の判断力では予測できないファクターを補ってくれるような、因習や慣習に相当するファクターがありません。少なくとも、大手を振って流通しているわけではありません。そりゃそうでしょう、社会の建前としても、個人の本音としても、「各人自由にやって良し」が徹底しているのですから。
 
 「各人自由にやって良し」は、もちろん喜ばしいことですし、私も「不自由なんてまっぴら御免」とは思います。でも、何もかも個人の自由な判断に委ねられた今からこそ、それがために「今」の自分自身の判断力に束縛されやすく、未来の自分自身の境遇や立場に不意打ちされやすくなったのではないか――そういう懸念は持っておいてもいいんじゃないか、と言いたいわけです。
 
 

年長者の生きざまから見えてくること

 
 私は、自己判断をやめなさいと言いたいわけではありません。むしろ自己判断は生きていくには必要不可欠です。だからといって自己判断を過信してはならないし、他の年齢・他の状況でも同じことが言えるのか、ときどき点検しておいてもいいんじゃないのかな、と思うのです。
 
 現在の若さや強さに立脚した考え方は、何歳まで通用するのか?
 若さや強さに立脚したライフスタイルだけが「正解」なのか?
 
 私は、判断力には射程距離みたいなものがあるんじゃないかと思っています――1年だけ見据えて最適の判断をするのはそう難しくない。3年ぐらいなら、自分があまり変わらないからこれも大丈夫。しかし、5年10年先の自分の変化を前提に入れた判断の出来る人というのはあまりいませんし、20年40年先の自分の変化を顧慮できる判断なんて、まず不可能とみるしかありません。
 
 じゃあ、どうすれば良いのか。
 
 私は、年長者の生きざまがヒントになるのではないかと思っています。
 
 年長者の生きざまや行動をみていると、特に若いうちは「あのおじさん(おばさん)、何やってるんだろう」的に思うことが多々あるんじゃないかと思います。自分より年上だというだけで、なんとなく嫌悪している人もいるかもしれません。しかし彼らの生き様のうちには、自分の将来の姿を推測させるヒントが豊富に含まれています。
 
 お年寄りがゆっくりと歩いている姿も、おじさんおばさんが保守的なサブカルチャー趣味をリピートしている姿も、若い時分には嫌悪感しか感じないかもしれない。判断力が鈍ったお年寄りの悲哀も、振り込め詐欺に引っかかってしまう老婆の執着も、優れた判断力を自任する現役世代には他人事でしかないかもしれない。でも、それらはいつまで他人事ですか?絶対に他人事ですか?なにより、ご自慢の判断力が、未来永劫にわたって刃こぼれを生じないという確証があるとでもいうのでしょうか?
 
 こうした事まで考慮に入れると、自分より年長の人間の生きざまが、また違った風にみえるように思います。トロトロしているようにみえるお年寄りも、頭が固くなってしまったおじさんおばさんも、案外、その年齢その境遇では頑張っているほうかもしれないのです。なかには矍鑠としているお年寄りや、柔軟なままのおじさんおばさんもいるでしょうけど、実のところ、そういう人達は若い時分に推測されるよりも凄い人物なのかもしれません。
 
 いずれにせよ、「今」だけを見つめ続けるタイプの判断の射程距離には気をつけるべきで、自分の判断力が加齢とともに変化していくことも忘れてはならないのだと思います。それと、社会も個人を置いてけぼりにするように変化していくと覚悟しておくべきなのでしょう。だとすれば「自分自身には先読みしきれない事が沢山ある」という認識が必要不可欠で、その必要度は、自由度の高い状況を生き、自分自身の判断に全てを賭けて暮らしている個人にこそ喫緊ではないでしょうか。
 

*1:そうした制度が制度として成立可能だったのは、社会の流れがある程度ゆっくりしていたから、という部分はあって、同じことが21世紀の先進国でやれるかと言ったらNoでしょうけれども