シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

私が好きな自意識/苦手な自意識

 
 人間の自意識には美味いやつと美味くないやつがある。
 きちんと言い直すと、【私にとって】好みの自意識と好みじゃない自意識がある。
 
 美味い自意識には陶然とする。他人が何かに執心し一生懸命に取り組んでいる瞬間や、twitterアカウントの隙間から普段は感じない拍動を感じる時には、北極の空にオーロラがかかる。「秘すれば花」という言葉もあるけれども、自意識のチラリズムはおおむね甘美だ。味覚修正に+50%ぐらいのボーナスがつく。
 
 私が美味しいと感じる自意識と、あまり魅力を感じない自意識は何なのか、てきとうに整理してみる。尤も、この試みは私の意識下で行われるものだから、きっとどこか不正確か、過剰に正直すぎるはずだ――まあ、人間の営みは万事不正確だから、あまり気にしないことにする。
 
 
 ・うら若い自意識
 
 私の場合、自意識を鑑賞するなら若いものに限る。裏表のない中二病、全力投球な優越感ゲーム、蛸壺に頭を突っ込んで盲目になりながら叫ばれる「俺達っていけている!」、等々。どれも眩しい!美しい!思春期の煌めきと言わざるを得ない。観ている私まで心温まってくる。過ぎた時間に思いを馳せ、自分自身の黒歴史を寿ぐひと時でもある。
 
 だってそうだろう?ああいう心からの発奮がやれるのは、まだ精神に手垢のついていない、真っ白な時期だけなのだ。うら若い自意識はやがて失われていく。と同時に、新世代の成長に伴って再び現れてくるものでもある。この一瞬の生命の輝きと失われていく純粋さは、ちょっとぐらい単純でも賛美や憧憬に値する。
 
 
 ・おじさんおばさんの自意識
 
 得手ではない。歳を取った人の自意識は、一般に、どれもこれも年季が入りすぎていて、入り組んでいて、こんがらがっていることが多い。屈託や手垢が目について、真っ直ぐなところが少ないのだ。かといって、40歳50歳にもなって真っ直ぐというのも、それはそれで異様であり、真っ直ぐな人は真っ直ぐなりにこんがらがっていると言わざるを得ない。
 
 おじさんやおばさんの自意識を楽しむとしたら、全裸中年男性的なオールレンジの自意識開陳ではなく、それなり年季の入っている人が垣間見せる過去の片鱗とか、チラッっと見せる“稚気の名残”のようなものが麗しく、私が楽しむにはそれぐらいがちょうど良い。中年の場合、自意識のチラリズムのほうが観ていていたたまれない事もなく、安心できるというものだ。
 
 全裸中年男性的なオールレンジの開陳は、直視がしんどい。逃げだしたくなる。うら若い自意識なら賛嘆に値するものが壮年や老年では地獄としかみえない。暴走中年や“乱心”を楽しむほどの邪悪さ、あるいは不安耐性が私には足りない。私は結構いいやつなのである(白目)。
 
 
 ・女性の自意識
 
 私は女性の自意識がぜんぜん得意ではない。承認欲求/所属欲求・アイデンティティ・自己効力感・自己愛、いずれのカテゴリーで分類しても、男性の自意識のほうが女性の自意識よりも私には響きやすい。女性の自意識を眺めていても、それほどグッと来ない。
 
 性別の壁が、魂と響きあう何かを邪魔しているのか?私の立ち位置からみて、女性の自意識はいつも遠く感じる。直接に話を伺っても文章で読んでも、どこかで解像度が落ちてしまっている気がしてならない。ただ、これがひとつの兆候にはなるというか、匿名世界の文章に遭遇した時の手がかりにはなる――私の魂がビリッと来た時には、男性が代筆している可能性をいったん疑ってみる。そういう疑わしい文章は“この文章には脛毛が生えている”と比喩したくなる。
 
 
 ・精神科的な診断名が該当しそうな自意識
 
 精神科臨床で遭遇する、たとえば境界パーソナリティ障害相当の自意識だとか、自己愛パーソナリティ障害*1相当の自意識だとかは、好悪の対象たりえない。職業的場面では、そもそも執着自体が取り扱われないかせいぜい従たる問題に過ぎず、意識している暇が乏しい。精神疾患レベルの自意識にも学ぶ余地は多々あるけれども、精神病理学から学ぶものと正常心理学から学ぶものが異なっているのと同様、そこから導き出される教訓も全く別種のものだ。まして、それを楽しむ/楽しまないという感覚は臨床状況では考えにくい。
 
 そして私は、職業的にはともかく個人的には正常心理学にこそ惹かれている。
 
 こうした事情もあって、ネット上で見かけるアカウントのうちに精神科臨床水準の問題を疑う兆候が見えてきた場合・明らかになった場合には、これを鑑賞するのは難しくなる。そのようなアカウントの追跡は勉強にはなるが、楽しみは一気に遠のく。醒めてしまう。どうしても、教科書を読むように眺めてしまい、個別性を愛する方向性*2より診断学的なカテゴライズを意識してしまうのだ。
 
 世間の人のなかには、精神科診断学に分類してしまう行為自体が愉しみなんじゃないかと思っている人もいるだろう。診断という棒を振り回したがっている人においては、そうかもしれない。でも、私の場合は精神科的な診断に人間を当てはめてしまう行為は、そんなに楽しいものではない。診断学とは分類の技術なのであって、個別性に注目する技法とは趣が違う。自意識の鑑賞には個別性を尊ぶところがあって然るべきで、診断学のふるいにかけてしまうと、個別性への着眼よりカテゴライズへの合致性に目を奪われてしまいがち。
 
 
 ・自覚の無い自意識の発露
 
 自覚の無い自意識/自覚のある自意識はどちらが美味しいかというと、原則としては前者だ。けれども自覚がなさ過ぎるのも考え物で、自覚がなさ過ぎる自意識は単純な味になることが多い。「半分自覚しているけれども半分自覚が足りない」ぐらいのほうが、自意識がパッパッと炎のように揺らめきやすく、しかもその振幅が逸脱し過ぎず、美しい。
 
 飽きてきたのでこのへんで。
 
 私は「そこそこ健康で若い男性の自意識」が好き、ということですかね。
 
 【追記】:ハフィントンポスト/BLOGOSの担当者様へ:この文章ははてなブロゴスフィア内輪向けのものです。どうか転載などなさらないでください。お願い申し上げます。
 

*1:特にDSMやカーンバーグ側のヘビーな自己愛パーソナリティ障害

*2:あるいは健全な意味でいう病碩学的な方向性