シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

創造性を決定づけるのはお金だけじゃない。なにかしらリソースは必要

 
 クリエイティブな人は趣味にお金がかからないというのは本当か? - 分裂勘違い君劇場の別館
 
 はてなブックマーク上の反応を観ていると、ちょっと燃えている感じがしますね。
 
 せっかく良い事が書いてあるのに、どうしてだろう?
 
 理由のひとつは、趣味について「貧しい」「豊か」といった価値判断を下しているからだろう。創造性の高低の話に、趣味についての価値判断の話が混じっている。こういう混淆は、いかにも燃えやすそうなポイントだ。
 
 もう一つの理由は、クリエイティブな趣味のリソース(資源)として、お金だけに着眼した書き方になっているからだろう。もし、「クリエイティブな人は趣味にリソースがかからないというのは本当か?」というタイトル&内容だったら、反応はもう少し違っていたはず。
 
 文章を書くにしても、イラストを描くにしても、お金だけがリソースとは限らない。なるほど、大抵の事物が購入可能な現代社会では、お金でカヴァーできる範囲は広く、お金を使える趣味人のほうが有利なのはそうかもしれない。が、創造的な趣味人をやっていて、実際良いものを創っている人達が、皆が皆、お金をジャンジャカ使っているものだろうか?
 
 時間をリソースとして活かしている人がいる。お金と同じか、ときにはそれ以上に、時間は趣味の充実に欠かせない。実際に筆を手に取るにも、楽器を手に取るにも、まずは時間だ。自分自身を休息させる時間も確保しなければならない。時間もまた、つぶしの利くリソースだ。多いに越したことはない。
 
 良いコミュニティや人間関係が重要な場合もある。師匠筋からの伝授や友人との切磋琢磨が、スキルを向上させたり創造性を刺激したりすることもある。そのような人間関係は、ときとしてお金では購入できず、逆に、お金があまり無くても手に入ることもある。高額なアイテムを貸し借り・シェアできる場合は、お金や時間の不足が補われることさえある。
 
 仕事や職場だって、ときにはリソースとして大きいかもしれない。例えば私は精神科医をやっていて、色んな精神疾患・病態水準の人と日常的に喋っているけれども、これは間違いなく趣味の触媒にもなっていると思う。カルテを書く行為も、おそらく修練の一部だ。お金でわざわざ購っているわけではないけれども、私の趣味や世界観に相当な影響を与えているはずだ。
 
 そして鮮明な体験。リンク先のfromdusktildawnさんは、

小説の舞台が現代日本に限定されると話に広がりがない。空間を越え、時代を越え、文化を越えて迫力を出すには、大量の資料の読み込みが必要になる。

http://fromdusktildawn.hatenablog.com/entry/2014/11/25/094653

 と書いていて、実際、現代日本に限定されない小説を書きたいなら、現地に赴くだとか、資料を読むとか、そういう作業がとても重要になるに違いない。
 
 けれども、それは小説の舞台を現代日本に絞らないfromdusktildawnさんの創作分野の話であって、現代日本に絞った創作分野の場合は、この限りではないと思う。思うに、リンク先の文章は、fromdusktildawnさんご自身の創作分野の話を(もう少し)お金のかからない種々の創作分野にまで適用していて、そこに引っかかっている人が多いのではないか。
 
 創作分野によっては、クリエイティブな人が、意外とお金を費やしていないことはままある。感性が鋭かったり、鋭すぎたりする人は、しばしば、娑婆世界の風景を高解像度で切り取って具現化してみせる。この場合、神経が焼き切れんばかりに刻み込んだ体験こそが、かけがえのないリソースとなる。これは、まずお金で買うことが出来ないもので、素養に甚大な個人差があり、鈍感な人は幾らお金を積んでも贖うことはできない。怪物めいた力量で風景を切り取ってくる人のなかには、この体験の鮮明さ・体験の解像度・切り取りの角度が異様に優れている(ときとして優れ過ぎている)タイプの人物が混じっている。
 
 関連して、当人自身のコンプレックスや精神病理性が重要な創作のリソースになっていることもある。「描かずにはいられない系」には珍しくない。まあ、この場合、“趣味”なのか“宿業”なのか、傍目にも本人にもわからないかもしれないけれども。とはいえ、表現することによって精神の悩みが軽減したり、コンプレックスと折り合いづけられたりする人も、案外いる。病碩学の対象になっているような人にも、このタイプが多い。
 
 念押ししておくと、私は、趣味にお金が要らないだとか、資料の読み込みが不必要だとか言いたいわけではない。多かれ少なれ、それらは必要なリソースだろう。けれども、こうした諸要素・諸リソースが結実した結果として個別の“創造的な人”が立ち上がってくるのだから、金銭的なリソースだけを強調するのはヘンテコだとは思う。
 
 

「リソースの継続投下が重要」という結論は変わらない。

 
 とはいえ、「お金」というワードにさえ拘らなければ、リンク先の文章の、創造性についての話はその通りだと思う。お金、時間、人脈、体験、感性、なんでもいいから、その趣味に役立つリソースをたっぷり用意し、費やすこと。費やし続けること――そうじゃないと創造性を発展させる事なんて不可能だと思う*1。最も優れた感性を持っている人ですら、一定期間、お金や時間のたぐいを注ぎ込み続けなければ創造性は開花しない。
 
 それと、リソースを継続的に注ぎ込み続けるためには、リスク管理も重要だ。途中でお金や時間が尽きてしまうようでは、創造性をカタチにするのは難しかろう。そういうのは論外だ。
 
 感性が鋭すぎる人・コンプレックスや精神病理性が主要なリソースになっている人の場合は、メンタルヘルス上のリスク管理も重要だと思う。鋭すぎる感性・逸脱した感性は、ときとして激しい消耗や不安、軋轢と背中合わせだ。鋭い感性を持ち合わせていても、そのリソースを継続的に注ぎ込めるぐらいに安定していなければにっちもさっちもいかない。
 
 だからまあ、創造的たろうとして尖り続けるのは、実に大変で、なかなか贅沢だと思う。趣味でやっているなら尚更だ。融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論にも書いたけれども、もし必要なら、尖ってない趣味人になったっていいんじゃないのかな、と思う。それでも趣味は楽しめるわけだし。
 

*1:ちなみに、お金や時間や人脈といったものは交換不可能な部分があるので、どれか一つだけ極端に乏しい場合には、失敗しやすい。全部そこそこ揃っていて、なおかつどれか一つが抜きんでて恵まれていると良いのかもしれない