シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

リースマン『孤独な群衆』を再読して感じたこと

 

孤独な群衆

孤独な群衆

 
 再読は八年ぶり。ちなみに八年前の私は、この書籍を“たいして面白味が無い”と思っていた。
 
 社会学者のリースマンは、1伝統指向型人間-2内部指向型人間-3他人指向型人間という人間のカテゴリわけ――というよりモデル分け――を行い、それぞれ、1旧来の伝統社会で身分のとおりに生きる人間、2ルネサンス期〜ヴィクトリア朝時代の、内在化した超自我や規範意識に基づいて個人選択を成し遂げようとする人間、3ポスト近代社会で自由でコミュニケーティブに生きようとする人間を描いた。パーソナライゼーションの考え方や、他人指向型人間のコミュニケーション重視なライフスタイルについては、21世紀の人間にこそ当てはまるところも多い。
 
 そうしたポスト近代社会の人間像を、八年前の私は、幾らかの引っかかりを感じながらも、確かにそうだよねという目で眺めていた。1960年代のアメリカ社会のようなポスト近代性は、私が育った1980-2000年頃の日本社会にも結構あてはまっていたと思うし、私より下の世代あたりからは、過疎地出身者でも他人指向型の人間が増えてきていたと記憶している。
 
 ただ、2014年に再読してみると、リースマンの書いたポスト近代社会の彼岸に日本は到達してしまったんだな、と、もののあはれを感じずにいられなかった。
 
 大都市圏や各県の県庁所在地で豊かな生活を続ける子女については、これからもリースマン的な他人指向型人間であり続けるだろうし、思春期モラトリアムを謳歌(または煩悶)するのかもしれない。けれども、そこまで豊かな前提を持ち合わせていない子女の場合はこの限りではない。それこそ『ポストモラトリアム人間の若者たち』に哀しく記述されたように、モラトリアム待ったなしな思春期が到来しはじめている。
 
 そうした新世代も、それこそ“マイルドヤンキー”論をはじめとする最近の郊外適応論にみられるような他人指向・コミュニケーション指向を持ってはいる。けれども、ポスト近代社会に“あって然るべき”多種多様な選択肢や可能性に開かれている若者は、例えば、1990年に比べれば減っているだろう。そもそも、多種多様な選択肢や可能性に必要不可欠なリソース――それは金銭的なものだったり、時間的余裕だったり、空間的な寛容だったり、文化資本的なものだったりする――によって支えられているわけではないので、十分にモラトリアムをやろうにも、なかなかやりようがない。このように、リースマンが記述した他人指向型人間と21世紀の日本の若者との間には多くの違いが生じている。
 
 そう、今回の再読で凄く引っかかったのは、リースマンの描く他人指向型人間の社会が、レジャーも教育もかなり余裕のある中産階級の多い社会を大前提としている点だ。そういえば、同時期のエリクソンのアイデンティティ論や思春期モラトリアムの話にしても、1960年頃の古き良きアメリカを踏まえて描かれている。しかし残念なことに、今の日本はそうではない。中産階級が没落しはじめている、否、もうだいぶ没落しているから、リースマンやエリクソンのモデルが当てはまる家庭や個人は減ってきている。彼らのモデルがそのまま当てはまる子女がまだいるとしたら、なかなか恵まれた家庭の出身者と言わざるを得ない。
 
 1980-2000年頃の日本社会は、一億総中流という夢がまだ潰えていなくて、実際に皆が平等だったかどうかはさておき、猫も杓子もレジャーや教育に打ち込めるだけのゆとりがあった。年収の少ない若者ですら例外ではなく、“生涯年収三億円”的な楽観をあてにして、やりたい事をやりたいように選ぶことができた。だからこそ、リースマンやエリクソンの議論や、その派生形としての思春期モラトリアム延長論が巷に流布したのだろう。
 
 しかし、豊かな中流社会の彼岸に到達した現世代には、リースマンやエリクソンの考え方は通用しない。いや、全く通用しないわけではないけれども、ある程度の修正が必要というか、コミュニケーション指向ではあっても猶予期間やリソースの足りない境遇のなかで何が起こっているのか・個人それぞれがどのような心理的適応を達成しているのか、注意深く洗い出す必要はありそうだ。
 
 そうした洗い出しの作業は、上の世代がやってくれるものでもなければ、アメリカ人さん達がやってくれるものでもないので、日本育ちの若い人達にやって貰いたいな、と期待したい。
 
融解するオタク・サブカル・ヤンキー  ファスト風土適応論

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