読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

しまむらとヤンキー的ファッション

 

ファッションセンターしまむら逆転発想マニュアル―驚異の低価格・高利益のマジック商法

ファッションセンターしまむら逆転発想マニュアル―驚異の低価格・高利益のマジック商法

 
 2014年の前半は「郊外はヤンキーが主流」みたいな言説が随分流行しましたね。騒がしいディスカッションになっていましたが、一連の言説で「いまどきのヤンキー」について認識を改めた人も多いのではないかと思います。
 
 国道沿いの郊外で生活している私は、そうした「いまどきのヤンキー」論を固唾を呑んで眺めていました。考えさせられる考察も多かった一方で、過去のツッパリ・不良・ヤンキーと、ヤンキーっぽいコンテンツを消費しているだけの消費者との線引きが曖昧な論者も少なくないな、とも感じました。
 
 昔のヤンキー魂を持ったヤンキーなんて、地方でもとっくに絶滅危惧種ですからね。その点、『ヤンキー経済』の原田曜平さんの“マイルドヤンキー”という標本抽出は巧みだったと言わざるを得ません。
 
 古典的なヤンキーならいざ知らず、今、郊外で多数派を占めているヤンキー的消費者を語る際には、個人のスタイルの問題より、ヤンキー的なコンテンツがどのように流通し、どのように消費されているかに触れなければならないはず。改造車や特攻服を自らハンドメイドしていた“尖った”不良やヤンキーの時代とは違って、いまどきのヤンキーっぽい消費者は、ヤンキー的な衣服を国道沿いの衣料品店で買い求めるのですから、ヤンキー的なものの実相を考える際には、そういう服を売り捌く店舗群にも着目したほうが良いのではないでしょうか*1
 
 で、「ヤンキーとファッションセンターしまむら」ですよ。
 
 正確には「ヤンキー的消費者と国道沿いの衣料品店」と書くべきでしょうか。
 
 21世紀のヤンキー的文化、特にそのファッションを理解するにあたって、ファスト風土の衣料品店の果たしている影響は軽視できません。なにしろ、地方郊外の幹線道路沿いで衣服を手に入れるにあたって、最も価格が手頃で、最も売り場が近いのが、(株)しまむらの店舗群、次いでユニクロなのですから。
 
 プレーンなデザインのユニクロはともかく、しまむらやAvailの衣料品は(生地や裁断がチープではあっても、意匠のわかりやすい)ヤンキー親和的なデザインのものが多数を占めています。そのうえ、地方の国道沿いでお母さんが買ってくる福袋――ピンクポンク、ディージェイホンダ、ビーワンソウル、といった“ブランドもの”の福袋――にも、大抵、ヤンキーっぽい意匠の衣料品が詰まっています。
 
 「お母さんに買ってきてもらった服」といえば、あか抜けないシャツやスラックスを連想する人もいるかもしれませんが、それは随分昔のこと。現在のファスト風土で「お母さんに買ってきてもらった服」といえば、ヤンキー的なデザインのものでまず間違いありません。
 
 必然的に、地方や郊外の子ども時代はヤンキー的な衣服によってイニシエーションを受けやすく、大きな変更を蒙らない限り、そのまま年を取っていきます。自分で服を選ばない人々は「お母さんに買ってきてもらったヤンキーっぽい服」のままに。自分で服を選ぶ人々も、美意識が大きく変化しない限りはやっぱりヤンキーっぽいテイストのままに。ここ十数年は三十代以下の金銭的余裕が乏しいので、衣服のスタイル変更に費やせる金銭が限られているのは言うまでもありません。
 
 “(株)しまむらがヤンキー文化を流布している”と言ってしまえば誇張になりますが、“(株)しまむらがヤンキー的な衣服を流通させる社会装置として機能している”とは言えそうです。
 
 こんな具合にヤンキー的な衣服が流通し、消費されているのですから、ヤンキー的な衣服を着ている=ヤンキー的なメンタリティを持っていると考えるのは早合点というものです。ファッションに全く興味の無いおじさんや、ファッションに無頓着な十代のオタク系男子が、なんともヤンキーっぽい出で立ちをしていることが珍しくなくなりました。
 
 魂としてはヤンキーの正反対を行く人でも、ファスト風土ではヤンキー的な恰好をしていることが珍しくないのです――主に、流通上の理由や購買上の理由によって。きわめて消極的な選択によって。
 
 こういう、ポリシーやスタイルと消費が合致しない消費の図式は、ヤンキー的な文化表象だけに限ったものではなく、『新劇場版ヱヴァンゲリオン』や『テルマエ・ロマエ』といった、オタク的・サブカル的な文化表象やコンテンツにもある程度当てはまります。文化表象や消費コンテンツと当人自身のポリシーやスタイルが強固に結合するのではなく、良く言えば融通無碍な、悪く言えば節操の無い消費が、ファスト風土のヤンキー的なるもの(あるいは、オタク的なるものやサブカル的なるもの)の実相ではないでしょうか。
 
 郊外で頻繁に見かけるようになった「マイルドなヤンキー」「ライトなオタク」「サブカルっぽい人々」を考察する際には、サブカルチャー的な精神性を云々するだけでなく、どのようなかたちで文化表象が流通していているのかに注目するのも、ひとつのアングルではないかと思う次第です。
 
融解するオタク・サブカル・ヤンキー  ファスト風土適応論

融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論

 

*1:そういう意味でも、ヤンキー的なものがマーケティング論として2014年に現れたのは実に象徴的です。昔の不良やツッパリやヤンキーは、コンテンツとして消費されるにはあまりにも尖っていて、アウトローで、多くの物品が手作りでした。ところが、ヤンキーをお題にマーケティング論がやれる程度には、ヤンキー的なるものはコンテンツと化し、生産・流通・消費されるものになった、ということなのですから。