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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

“空気を読んで、人を読まず”

 
 先日、私よりもコミュニケーションが上手な人と「空気を読む」について話し合った。
 
 空気を読むのは大切だ。その場の空気に従うにしても、その空気に敢えてコミットするにしても、状況を把握し、どうしてそんな空気になっているのかを察知しておくと、何かとやりやすいですよね、という話になった。
 
 でも、空気ばかり読んで、空気にばかりコミットしても仕方ない。
 
 コミュニケーションの上手な人は言う。
 
 「空気は読んでいるけども、個別の人間はちゃんと読んでいない人が沢山いる」
 
 いわば“空気を読んで人を読まず”。
 その場のTPOや状況はそれなり読めていても、個別の人間に対して融通の利かない対処をしてしまう人は少なくない。いったん読み取った空気を過度に一般論化してしまうというか、場の空気さえ読みとってしまえば、AさんにもBさんにもCさんにも一様な態度を適用して構わないとみなすような、そういう人だ。
 
 あるコミュニティや場に共通の空気が出来上がっていたとしても、その空気のなかにいる人間には、それなりに多様性があって、事情の違いがある。どんなに共通した空気の文脈ができあがっているようにみえても、空気は一枚岩ではないのだ。だから、「私が」「特定の誰かに」コミットする際には、AさんにはAさんの、BさんにはBさんの、CさんにはCさんに向けたカスタマイズがなければならないし、場の空気と各々の関係性とか、各々のコミュニケーション上の得手不得手みたいなものを読み取っていかなければならない。
 
 結局、そうやって個々人の特徴や思惑を読み取らなければ、空気は読めても、人は読めない。最終的には、空気は個々人の集合体によって成立しているので、人にコミットできなければ空気にコミットすることも難しい。いや、人にコミットしなくても空気にコミットする方法が無いわけではないけれども、個人に働きかけなければ出来ないことは沢山ある。ぶっちゃけ、空気を読んで人を読まない人のアクションは、雑だ。
 
 あるいは、敢えて空気はそのままに持ち越しつつ、個人間の微調整で問題を解決するってやり方もあるだろう。しかし、そういう微調整を企てる時こそ、個人を読み、個人に働きかける方法論が欠かせない。
 
 たぶん、世の中には、空気は読めても人が読めない人が一定程度いると思う。そしてそういう人は、空気は読めても空気を変えにくく、従って、思うに任せない空気を嫌悪しつつもイヤイヤ従っている確率が高いものと思われる。
 
 しかし、誰もがそうだというわけではない。空気も人も読める能力を持っていながら、空気を優先的に読みにかかるあまり、個別の人間事情や人間傾向を蔑ろにしてしまっている人もいると思う。それは慢心から来るものなのか?それとも空気に対する怖れの気持ちから来るのか?そのあたりは分からないけれども、空気を読む優先度が高すぎると、小回りが利かないし、空気に対する(自分自身の)融通性も高まらないと思う――例えば、普段は概ね空気に服従しつつも、ここぞという場面で、あまり揉め事を起こさないかたちで空気を破ってみるためには、その場に居合わせている面子についての詳細な把握がなければ難しいと思う。やって出来ないことはないけれど、なんにも把握せずにやるのと、出来る限りの把握に基づいて配慮を施しながらやるのでは、空気を破る際のコストやリスクはかなり違うと思う。
 
 実は、空気をコントロールしているように見える人間のなかには、空気をしっかり読んでいるようにみえて、その実、個別の人間事情や人間傾向をこそしっかり読み取って、そちらを顧慮した振る舞いに長けている人が少なくない*1。フォーマルな表向きの表明、たゆたう空気だけを見つめていてはいけない。あてにしすぎてもいけない。個別の人間の事情、個別の人間同士の間で起こっている小さな挙動にも、コミュニケーションを円滑に進めるためのヒントがたくさん潜んでいる。
 

*1:これは、空気の読みあいの濃度の高い、クローズドなコミュニティの場合にこそ当てはまる