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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

承認欲求の畜生界

 
 はてな村奇譚2 - orangestarの日記
 
 リンク先のタイトルは『はてな村奇譚』となっているが、内容は広範囲のネットユーザーに当てはまる。
 
 
・ネット承認欲求を求めている人間達がいつのまにか化物に
 ↓
・かわいそうに、あれでも本人たちはまだ人間のつもりなんですよ?
 ↓
・あなたも気をつけてください
 
 「豚もおだてりゃ木にのぼる」と言うけれど、認められたい欲求や注目されたい欲求にほだされ、奇態醜態を繰り返すネットユーザーのなんと多いこと!『いいね!』『favorite』『はてなブックマーク』に一喜一憂し、それらを獲得するために“芸”をうつ人、必死にウケを狙う人なら、もっと沢山見かける。twitterやソーシャルブックマーク上で何か気の利いたテーマが与えられるたびに“大喜利”に参加せずにいられない人・時事ネタにいっちょ噛みせずにいられない人・“俺の影響力”を考えなければならない人etc……。
 
 ネットコミュニケーションが日常に浸食しまくっている人間にとって、それらは自然な行為かもしれない。だが、蚊帳の外の人間からみれば、非生産的で、意味不明な営みとうつるだろう。心理的欲求にとらわれるあまり、注意力や時間を垂れ流しているのではないか。刹那の充足こそあれ、後には何が残るのか?
 
 ところが、ネットの狂騒に曝され続けていると、そういう疑問を顧みる機会が少ない。この人も、あの人も、向こうの人も、皆がアテンションを求め、『いいね!』や『シェアさせていただきます』を求め、アッパーでハイパーなアカウントを指向していると、それこそが正常のように思えてくる。
 
 昔、偉い人が「狂気は個人にあっては稀だが、集団・民族・時代にあっては通例である」と言ったらしいけれど、実際問題、誰も彼もが承認欲求モンスターと化し、俺もネットアイドルになりたいと熱望しているような界隈では、自分自身が似たような状態になっても違和感が沸いてこない。自分一人だけがモンスターになってしまえば、怖ろしいとか切ないとか感じようもあるかもしれないが、周りもみんなモンスターでは、怖さも切なさも感じようが無い。
 
 だから、承認欲求モンスターな人々がたむろしている場所に滞在し続けるのはお勧めしない。気付かぬうちに“朱に交わって赤くなってしまう”かもしれない。
 
 

ネットアーキテクチャの功罪

 
 悪いことに、インターネットには、承認欲求を肥え太らせ、欲求を加速するのに好都合なカラクリが満ちている。
 
 例えば『いいね!』ボタン。
 
 『いいね!』……ああ、なんと罪深いアーキテクチャだろう!人間の多種多彩な感情をたった一言に変換し、昆虫の共鳴のごとき信号に圧縮化してしまったのも罪深いが、さしあたって、『いいね!』ボタンがネットのそこらじゅうに溢れかえっていること、たくさん『いいね!』シグナルが流通している事実にこそ怨嗟の声をあげておこう。もちろん、各種ソーシャルブックマークのボタンや、アクセスカウンタ、リツイートの類も大同小異、同罪だ。
 
 これらのアーキテクチャによって、ネットユーザーは絶えず煽られている――あなたにも認められるチャンスがありますよ、あなたにもお立ち台に立てる可能性がありますよ、あなたも“有名”になれるかもしれませんよ――実際、たくさんのネットユーザーが『いいね!』やリツイートを蒐集し、インターネットのお立ち台でパフォーマンスに励んでいるのだ。満更でもない様子で。
 
 承認欲求モンスターと化している人達が、もともと承認欲求に飢えすぎた人達だったとか、(私自身も含め)自己愛パーソナリティ傾向が強かったとか、そういう個人分析も可能だろうし、それなりに有効だとは思う。個人主義社会のなかで孤独に瀕し、ネットで騒ぐ以外に心理的欲求を充たせない人が析出している、という見方もできるかもしれない。だが、それらを差し引いても、ネット上の承認欲求の流通システムによって個人の承認欲求がインフレを起こしやすくなっている、という点は見逃せない。はてなブックマークが5個ついた後は10個を。10個の次は20個を。その次は………。
 
 アクセスカウンタしか無かった時代よりもソーシャルブックマークが加わった時代のほうが、ソーシャルブックマークまでの時代よりも『いいね!』時代のほうが、より沢山のユーザーを・よりリアルタイムに承認欲求の坩堝に叩き落すシステムが整備されている――そういう、欲求とネットブラウズを結びつけるシステムは、ネット企業にとって重要だったに違いない。ネット企業としては、南の島でバカンスを楽しんでいる時さえネットをチェックせずにいられないようなユーザーが、それなり必要だろうから*1。ユーザーを自社サービスに篭絡しておくにあたって、心理的欲求、それこそ承認欲求は有効な“飴”だった。そうした“飴”がトラフィックを駆け巡ってゆく……。
 
 この風景をユートピア的とみる人もいるだろうし、ディストピア的とみる人もいるだろう。どうあれ、途方も無い現象ではある。そして、これはインターネットに限った傾向でもないんだろうな、と私は思う。そもそも、こうしたアーキテクチャが普及したのも、承認欲求という言葉がここまで流通したのも、それだけ現代人のメンタリティが承認欲求モンスターに近づいているからこそではないか。
 
 例えば、ルネサンス期のイタリアや戦後間もない日本にネットがあったと仮定して、このようなかたちで個々人が承認欲求を求めあがいたとは思えない(たぶん、全く異なった欲求が炙りだされるだろう)。『いいね!』ボタンが栄華をきわめている根底には、まず現代社会ならではの欲求のかたち、承認欲求に染まった社会病理のかたちがあることを付言しておく。
 
 

復唱:かわいそうに、あれでも本人たちはまだ人間のつもりなんですよ?

 
 以上を踏まえたうえで、自分自身の承認欲求の姿、特にネットユースと承認欲求の連関についてチェックしてみて欲しい。いつの間にか過剰になってしまっている点や、ネットの空気に流されてしまっている点も多いのではないだろうか。そもそも本当に、ネット越しに認められる必要性があるのか?わざわざ、その面倒くさい話題にいっちょ噛みする必要があるのか?――ほら、やっぱり承認欲求のケダモノ、それか奴隷になっちゃあいませんかね?
  
 「かわいそうに、あれでも本人たちはまだ人間のつもりなんですよ?」
 
 ……それにしても、どこに行けば承認欲求モンスターを正気に戻す“黄金のリンゴ”が見つかるんだろうか。もしかすれば、オンラインの世界にはそんな可能性は無いのかもしれない。ただ、間違いないと思われるのは、「欲求を充たしたい」気持ちの赴くまま、一万人から『いいね!』を蒐集してみたところで、承認欲求モンスター状態が治るとは思えないことだ。
 
 一万人から『いいね!』を貰ったって、三日も経てばまた欲が疼いてくる。そして今度は一万二千人から『いいね!』を貰わなければ同等の悦びが得られなくなる。だから、欲求充足に従い続けている限り、承認欲求を巡る飢えや渇きからは逃げられない。違ったアプローチが必要だ。
 
 

*1:ただし、エチケットペーパーには「ユーザーの皆様におかれては、自己責任の精神で時間や精神衛生の自己管理には気をつけてください」と書かれている