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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

老けたっていいじゃないか!若さばかり望む風潮はおかしい

執着

 
 
なぜ同じ40代でこうも老け方が違うのか:日経ビジネスオンライン
 
 リンク先の記事には、美容コンサルタントの方による「老けないようにするための方法」が列挙されていた。曰く、眉間の皺に気をつけろ、窓際は紫外線が強い、スマホをやりすぎるな、赤ワインを少し嗜もう、ストレスは避けなさい……エイジングを防ぐための手段として、なるほどと思えるものが挙がっていた。
 
 ただ、これって一体誰に可能なんだろう?とも思った。スマホやPCで目を酷使するのも、ストレスに曝されるのも、多くの現代人には避け難いところだ。「ストレスを感じないような意識の転換」ったって、それが出来れば苦労はしない。紫外線にしても、農業や建設業といった外で働く職種の場合は、どうしても受けてしまう。
 
 ならば、この美容コンサルタントさんのアドバイスどおりに生きていける四十代、五十代とは一体どういう人間なのか?汗水たらして働く必要が無く、何事につけてもストレスより“生き甲斐”を感じ、紫外線やテクノストレスとも無縁、そして赤ワインを嗜む――敢えて古い表現を使うなら、それって“高等遊民”ではないのか?
 
 もし、時間もお金も有り余っている人が美容コンサルタント業の顧客層だとしたら、こうした記事も客受けが良いのかもしれない。若々しい肌を手に入れるためなら、何百時間・何千万円と費やしても痛くも痒くもない人が世の中にはいるだろう。だけど、日々あくせく働いている庶民の感覚からすれば、とても手が届くものじゃない。あるいは、欲を煽るだけ煽るのもコンサルタント業の仕事の一環なのかもしれないけれども。
 
 

若さばかりを良しとする風潮への違和感

 
 そもそもの疑問として、どうして若さが大切なのか。
 特に、美容上の若さの重要性とは、一体何なのか?
 
 これが十代〜二十代の男女なら、わからなくもない。だが、四十代〜五十代ともなれば、もう若い若くないという年齢でもあるまい。人生の過半を生き、社会的にも一定の立ち位置を獲得している大の大人である。「四十歳になったら人は自分の顔に責任を持たねばならない」という言葉もあるように、これまでの経験や蓄積が顔に刻まれ、それが新しい魅力を醸し出すようになる時期でもある――もちろん、「四十歳になったら人は自分の顔に責任を持たねばならない」は性別には関係無い。歳月の重み、経験の重みを感じさせる顔には、男女を問わない魅力がある。
 
 ところが、どこかで吹き込まれた「若いことはいいことだ」というテーゼを妄信し、とにかくも若作り競争に励む人が珍しくないのである。さしあたり「お若いですね」と言っておけば安心、美容院ではワンランク若い雑誌を勧めておけば安心――そんなに若いことが素晴らしいことなのか。そんなに歳を取るのがいけないことなのか。なにかおかしいんじゃないか。
 
 人間は長生きしたがりな生物だから、若さに執着を抱くこと自体はそんなに不思議ではない。けれども、どんなに頑張ったところで、アラフォー、アラフィフは高校生や大学生には若さではかなわないのである。勝負するところを間違えているのではないか。それよりも、今の年齢にしか無い魅力、若い世代には実現不可能な持ち味にウエイトを置いたほうが、建設的で、サマにもなるのではないか。
 
 歳を取ることによって失われるものがある反面、歳を取ることで獲得できるもの、刻み込まれていくものもあるはず。現に、肌はしわくちゃ・しみだらけになっても、立派に老いているおじさんやおばさん、おじいちゃんやおばあちゃんが案外いたりする。そういったものを蔑ろにして、自分の身体に刻み込まれた歴史をできるだけツルツルにしようと願うのは、歳を取っていく自分自身を、ひいては自分自身の歴史というものを、大切にしているとは言えないのではないか。
 
 人生には、春や夏もあれば、秋や冬もある。
 春や夏にしがみつくだけが人生を大切にしていると言えるのか?
 秋や冬には美しさなど存在しないのか?
 
 このあたりについて、考え直す余地はないものだろうか。
 
 

後ろ向きではなく、前向きなエイジングを

 
 なお、私が強調したいのは、見た目の若さに執着するあまり、エイジングに対するポジティブな意味づけを見失ってしまうことだ。「全員、年齢相応に老けた姿になるべき」とか「健康なんて捨ててしまえ」と言いたいわけではない。
 
 1.当然、人間の年の取り方には個人差がある。四十代になっても三十代のように見える人もいるだろうし、五十代の時点で還暦を迎えたかのように見える人もいる。そういう個人差はあって構わないし、個人の時計の歩みにあわせて、それぞれのスピードで歳を取っていくのが望ましいに決まっている。他人よりも早く歳を取るか、遅く歳を取るかは、さしたる問題ではない*1。どっちにしたって、人は加齢していくのだ。個人それぞれが加齢の歩みをどのように受け入れ、位置づけ、生かしていくかが肝心だ。
 
 2.それと、見た目の若さに比べると、内蔵や関節といった身体機能のほうは、やはり保てるにこしたことは無いと思う。しみや皺の類はともかく、足腰や内蔵が弱ってしまうと出来る事が狭くなってしまうので、健康管理は必要だ。
 
 私は、壮年期〜老年期に苦労の痕跡が刻み込まれていることは、格好悪いものではないと思う。控えめに言っても、他人がそれを「みっともない」と言うのはおかしい。皺やしみも、その人が必死に生きた痕跡であり、歴史でもある。それを邪険に扱い、若くてツルツルした肌ばかり求めるのは、自分自身の生きた痕跡や歴史など要らぬ、積み重ねてきた苦労なんてカッコワルイとでも言うのだろうか?
 
 先に述べたように、どれだけ若作りしたところで、十代や二十代の劣化コピーになるのが関の山である。壮年や老年のアドバンテージとは、痕跡や歴史を負うこと、それを持ち味とすることではないのか。だとしたら、自分自身のエイジングに背を向けて若さにしがみつくよりも、エイジングに対して前を向いて、皺のできた自分自身の顔、ここまで頑張って生きてきた自分自身の痕跡を、愛したほうが良いのではないか?
 
 どうしても歳を取っていく自分を愛せないなら、せめて、許すぐらいはしたほうが良いと思う。歳を取ることが罪悪のような固定観念を持ってしまうと、歳を取るほど辛くなってしまうからだ。
 
 現代社会は、若さを追い求めるテクニック、とりわけ若い外見を維持するテクニックばかりが奇形的に発達し、昭和時代にはあり得なかったほど若々しい壮年〜老年を見かけるようになった。それはまあいい。だけど、前向きに歳を取っていくための価値観や、壮年〜老年ならではの持ち味を生かすような方法論は、マスメディア上でもインターネット上でも不思議なほど見かけないように思う。社会全体が高齢化し、誰もが必ず老いていくことを思うにつけても、奇妙なことだと思う。もうちょっと議論されてもいいんじゃないか。
 

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

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*1:とりわけ一定以上の年齢では、見てくれの老若によって偉さが決まるわけでもない