シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

地域社会で見かけた「謎の余所者」

 
 じきに忘れてしまうのが恐いので、今のうちに文章化を試みておく。
 
 私が子ども時代を過ごしたのは、いかにも「地域社会」っぽい集落だった。成人達にとって、しがらみは大きかっただろう。それでも、いわゆる「家格」的なものが支配的ではなくなっていたので、旧時代と新時代の境目のような雰囲気にはなっていた。
 
 町内のほとんど全域が遊び場だった。近所の裏庭、家々の隙間、空き地、細い道路――これらは全て、子どもの遊び資源だった。「鬼ごっこやケードロでは、人の家の庭に入っていく」のが当然のコンセンサスとみなされ、そもそも人の家の庭と言っても、どれも顔見知りで、顔パスだった。ときには「ちょっと饅頭でも食べてらっしゃい」と声をかけられたり、果物の収穫を手伝わされたりすることもあった*1
 
 もちろん、「カミナリオヤジのいる家」「神経質な婆さんが住んでいるゴミ屋敷のような家」もあったけれども、そういった“危険地域”は子どもの間で情報共有が進んでいて、知らぬ者などいなかった。どこにどんな人間が住んでいるのか。危険や面倒の発生源がどのあたりなのか。そういう知識は、地域で暮らすために必要だったし、年上の子どもから教わるものでもあった。
 
 

何年経っても正体の掴めない「謎の余所者」

 
 ただし、勝手知りたる地域の暮らしにも二つの例外があった。
 
 ひとつは、自宅から100mの地点にあった小さな借家。
 
 この、庭に何も植えられず砂地に囲まれた一軒家には、見知らぬ家族がやってきて、2〜3年で出ていくのが通例だった。その一軒家が借家であること、土着の人間とは異なるライフスタイルとロジックで暮らしているらしい事は、子ども心になんとなく把握できていた。しばしば子ども連れが引っ越して来たため、子ども同士で友達になった。地域のルールや“危険地域”情報は、比較的早い段階で共有されていたと思う。
 
 もうひとつが、さらに不思議な家だった。
 
 まず、家のサイズが恐ろしく小さい。砂地の一軒家の半分以下で、当時の私の感覚からすれば、それは家というより小屋だった。たぶん、「1Kのワンルームマンション」に近い広さだけれど、そんなにハイカラなものではない。錆びたトタンぶきの屋根も、黒ずんだ木の壁も、台風が来たら壊れてしまいそうな雰囲気だった。それでも電気は通っているらしく、昼間にテレビの音が聞こえ、夜には明かりが灯っていた。
 
 どんな人が住んでいるのか?
 
 “おじさん”が“独りで”暮らしているらしい事は早い段階から察せられていた。地域では珍しいことに、彼は髭を生やしていた。ところが、それ以上のことが分からない。
 
 表札は、無い。子ども同士はもとより、大人達も名前を知らない*2。町内会の地図を見ても、その小屋の所在地には名前が記されていなかった。たぶん、町費も払っていないのだろう。納涼大会・左義長・祭りといった地域行事で、その“おじさん”に会うことも無かった。国民の休日に、日の丸の旗をあげることも無い。
 
 子ども達の間では、その“おじさん”は近づき難い存在とみなされていた。“おじさん”のほうでも、どうやら私達との接触を避けているらしかった。それでも、「カミナリオヤジ」や「神経質婆さん」のような危険人物ではなかったので、小屋の近くで遊ぶことはあった。すぐ近くにムラサキツユクサの自生地があり、鬼ごっこやケードロの地勢上、小屋周辺をおさえておくことが重要だったからだ。
 
 それゆえ、ごく稀に“おじさん”に出会ってしまうこともあった。挨拶できたことは殆ど無い。会釈することもなく、お互い、そそくさと立ち去るのが常だった。勇気を出して「こんにちは」と言ってみたこともあったけれど、返事は無かった。
 
 

「余所者」という感覚の行方

   
 “おじさん”を異質と感じていた当時の感覚を、懐かしく思う。
 
 現在では、自宅から半径1kmの顔と名前がほとんど一致するような生育環境は一般的ではない。けれども人類の歴史のうえでも、あるいは昭和時代に地方で育った人間の感覚としても、そういう生育環境こそがオーソドックスだった。だからこそ、私と私の周囲の子ども達は皆、“おじさん”を不思議で特別な存在とみなしていたとも言える。「余所者」という感覚は、地域社会ならではのものだ。
 
 時代が変わり、居住環境が変化していくにつれて、「余所者」という感覚は薄れていった。私自身も、そういう感覚をoffにするようになっていった。そもそも、都市や郊外で暮らしている人間が、顔と名前が一致しない人間をいちいち不思議がっていたら、きりがない。「余所者」などという感覚は無いほうが良いのだろう――少なくとも、現代の、成人同士の生活においては。
 
 それでも私は、かつての自分が「顔と名前が一致するのが当たり前」とみなしていた記憶を、過去から受け継いだ遺産のように思い出す。人間を考えるにあたり、都会/郊外と地域社会、ゲゼルシャフト的な生育環境とゲマインシャフト的生育環境の両方を肌で知っていなければ見落としてしまう事はたくさんあるはずだ。そして私は田舎者だった。今でもそうかもしれない。だから、都市や郊外で生まれ育った人間が記さないようなことを、記したい。
 

*1:その手の手伝いには、素敵なお土産がついてくることもあった

*2:「あそこの家はかくかくしかじかだから、近づいちゃいけないよ」的な事を吹き込まれることも無かった。今となっては判然としないが、地域の成人達も、あまり情報を持っていなかったのではないか?少なくとも、歴代にわたって部落差別的なものが起こっていたわけではなかったようだ。本当に“余所者”だったのか、それとも……。