シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

新しい時代を創るのは老人ではない――『ガンダムUC』感想

 

 
 【注意】この文章は『ガンダムUC』第七話までのネタバレだらけです。未見の人はご注意ください。
 
 「新しい時代を創るのは老人ではない。」
 
 『ガンダムUC』を見終わった後、シャア・アズナブルのこの台詞を思い出した。
 
 
 (以下、『ガンダムUC』のネタバレ記事です。未見の方は読まないでください)
 
 
 
 
 ここから、『ガンダムUC』最終話まで観た個人的感想を書く。
 
 『ガンダムUC』には様々なテーマが埋め込まれている。そんななかで、アラフォーの私が一番考えさせられたのは、世代から世代へ引き継がれる時代の流れと、そうした時代の流れのなかで、一成人としてどのように身を処すか、ということだった。
 
 初代ガンダムがテレビ放映されて三十年以上。『逆襲のシャア』から数えても四半世紀の時が流れた。青少年としてリアルタイムにガンダムシリーズを楽しんだ世代は、ある者は父となり、ある者は母となった。アニメ視聴を制限される子どもの立場から、アニメ視聴を制限する親の立場に変わった人も多いだろう。
 
 そうした現実世界の時間の流れと、視聴者層の高齢化を踏まえてであろう、『ガンダムUC』には、何かを背負った成人が数多く登場する。もちろん、主人公はバナージであり、ヒロインはミネバ・ザビであり、彼らは新しい時代を担う若者の象徴として描かれていた。そのあたりは、歴代のガンダムシリーズと大きくは違わない。
 
 けれども、成人の描かれ方は大きく違っていた。ギレン・ザビのような巨大で明確な敵も、パプテマス・シロッコのような天才気取りも登場しない。『ガンダムF91』や『Vガンダム』に出てくるような、幼稚な成人のエゴも登場しなかった。
 
 もちろん、敵がいなかったわけではないし、成人のエゴがみられなかったわけでもない。ただ、作品全体として、背負うべきものを背負った成人の生きざまや悲哀が事細かに描かれていて、わかりやすい敵も、圧倒的にエゴイストな成人も、そこには描かれていなかった。
 
 若者時代からジオンの尖兵だった兵士達。積年の鬱屈はあっても、彼らもまた家族を育み、背負った立場と来歴に基づいて、戦い続けた。勝ち目の無い戦いでも、彼らは戦わないわけにはいかなかった。自分達が積み上げてきたものを守り、残される者の安寧を願うために、ぼろのようなモビルスーツに乗って、連邦軍に果敢に立ち向かった。
 
 連邦軍の兵士達も負けてはいなかった。「歯車には歯車の意地がある」と語ったダグザ中佐を筆頭に、装備や戦況に劣る場面でも、彼らは最後まで奮闘した。地球連邦政府という、腐敗と陰謀が横行する巨大組織の、交換可能な部品の一パーツという自覚が彼らにはあるだろう。それでも、彼らは彼らなりに自分の役割を果たそうとし、社会と次世代を担っているのは自分達だという自負が垣間見えた*1
 
 そうした、「生き続ける成人として背負っているもの」の描写は、末端の兵士に留まらない。フル・フロンタルを名乗る金髪の男や、マーサ・ピスト・カーバインでさえ例外ではなかった。シャアの再来というには、フル・フロンタルの発想は所帯じみていたし、傲岸不遜にみえるマーサもまた、男社会と対峙し、いつしか飲み込まれ、業を背負っていた。拘束され、連行される直前にマーサがアルベルトに投げかけたまなざしは、とても含蓄深いものだった。
 
 『ガンダムUC』では、バナージにチャンスを託したブライト・ノアや、生徒を守って爆死したバンクロフト先生をはじめ、多くの成人が、何かを守るために戦っていたと思う。理不尽な現実に泥まみれになりながらも、人類根絶などに論理飛躍することなく、守るべきを守り、役割を果たすために『ガンダムUC』の成人達は戦ってきた。
 
 人は、ときとして守るべきものや立場のために、意固地になってわかりあう機会を逃してしまうし、それが悲劇を生むことも多い*2。だから、何かを守りたいという気持ちがあればそれで良いというわけではないし、そうした意固地さは、『Zガンダム』のライラ・ミラ・ライラが死の直前に悟ったオールドタイプの特性そのものではある。
 
 けれども『ガンダムUC』という作品は、そうしたオールドタイプな成人達(とその集合体たる人間世界)の営為を、若者目線で否定的に描くのではなく、手放しで肯定するでもなく、喜びも悲しみも、希望も絶望も、そこから生まれてくるという風に描いた。私はそういうのに弱いから、がっつりと感動してしまった。
 
 

若者が新しい時代を希望し/成人がこの時代を支える

 
 もちろん、『ガンダムUC』は重苦しいおじさんやおばさんの独壇場ではない。もっと軽やかで未来志向な若者として、バナージやミネバが活躍している。
 
 所帯じみた構想にもとづくフル・フロンタルの物言いを、ミネバ・ザビは「シャアならそんな事言わない」と一蹴した。思春期の只中にあり、未来を切り拓いていかなければならないミネバ・ザビの年齢と、全盛期のシャアの青年臭さを考慮するなら、その一蹴は似つかわしいものだった*3。もしミネバが、あの場面でフル・フロンタルに言いくるめられているようでは、ちょっと物分りが良すぎる。
 
 では、フル・フロンタルは“間違っていた”か。
 
 私はそう思わない。彼は、ネオジオンという倒産寸前の中小企業の社員を背負っている、いわば中年社長だった。その中年社長の構想としては、サイド共栄圏というアイデアもそれなり妥当だろう。あの年齢・あの立場でミネバと同じ事を口にしていたら、それはそれで滑稽だ。
 
 これから成人になっていく若者と、その若者を育てていく成人では、同じ課題や問題に対する最適解は異なっているものだ。
 
 これまでの宇宙世紀ガンダムは、どちらかと言えば、成人の過ちや腐敗が描かれ、若者がそれに巻き込まれる……という構図が目立った。成人の、2〜3つの陣営の正当性については、相対的描写が描かれることはあっても、「成人と若者のどちらが正しいか」的な場面では、専ら若者の正しさ、若者が若者として言うべき言葉の清清しさみたいなものに力点が置かれていたと思う。
 
 ところが、『ガンダムUC』はそうではない。もちろん、バナージやミネバの清清しさは重要で、背負ったもので身動きが取れなくなっている成人達の世界に風穴を開けるためには必要だった。彼らが若者として・ニュータイプとしてああいう事を言うのは至当だし、あれがなければ『ガンダムUC』は成り立たない。ただ、その一方で、今までの作品以上に、歴史や責任やしがらみを背負って生きる成人の妥当性や、彼らの行動原理の背景にある諸要請がしっかり浮び上がるようになっていて、例えば『Zガンダム』のカミーユや『ZZガンダム』のジュドーであれば“大人達は!いつだって!”と罵るような立場の成人にさえ、それなりの理があることをきちんと描ききっていたと思う。
 
 いつの時代も、新しい時代を創るのは若者だ。
 だから、バナージやミネバはあれでいい。
 
 そして、それまでの時代を背負いながら現在を支え、若者と、その若者がもたらす可能性のために、自分の責任や立場のなかで最善を尽くすのは成人だ。だから、ブライトやバンクロフト先生は勿論、フル・フロンタルやマーサのような成人にも相応の理がある。
 
 

清濁合わさった世界に「Yes」と言うこと

 
 とはいえ、皆に理があるからといって、皆が幸せになれるわけでも、人類の愚かさに終止符が打たれるわけでもない。希望の数と同じぐらい絶望も生まれ、喜びの影には憎しみも生まれるだろう。光輪のなかでバナージとフル・フロンタルが目の当たりにした宇宙世紀史は、そのような負の連鎖だった。
 
 フル・フロンタルという人は――そしてアクシズ落としを実行した頃のシャア・アズナブルという人も同様に――そのあたりが潔癖過ぎて、ニヒリズムに突っ走ったようにみえる*4。だがそうした負の連鎖もまた、実際には世界の一面でしかない。いつまでもニュータイプに覚醒しない、やるせない人間世界にも温もりがあり、可能性があり、祝福もある。そうやって歴史は紡がれてきた。
 
 バナージは可能性を信じ、人間にも社会にもYesと言った。たぶん、ミネバもそうだろう。負の連鎖を見てもなお温もりを捨てず、「Yes」と言ったバナージの決意は重く尊いものだと私は感じた。
 
 ちなみに『ガンダムF91』や『Vガンダム』を知っている視聴者なら、バナージやミネバが語った可能性の果てが、長期的な停滞と衰退だったことを知っているだろう。だから「バナージやミネバの決意は空しい」と(フル・フロンタルのように)捉える人もいたかもしれない。けれども、そうした未来史を織り込み済みのうえで、『ガンダムUC』で描かれたのは、それでもバナージやミネバの決意は尊いということ、清濁併せ持った人間と人間社会に「Yes」を宣言し、愛することだったと思う。その「Yes」が有意味であればこそ、あの人の魂もまた、「君に託す」と言葉を残し、白鳥の群れに還ってゆけたのではないか。
 
 逆に考えるなら、あの人は、人間と人間社会の理想を愛することは出来ても、等身大の人間や人間社会を愛することは出来なかったのかもしれない。最期にそれが叶ったのは、救いであり、文字通りの成仏だったと思われる。
 
 ニュータイプの力とサイコフレームのカラクリのせいで、『ガンダムUC』は少々スーパーヒーロ的過ぎているし、マリーダ・クルスはあたかも聖女のようだった*5けれども、本作はニュータイプが活躍する作品だから、そのあたりは見所のひとつなんじゃないかと思う。モビルスーツだけでなく、人間模様も手抜かり無く描かれた作品だった。
 

*1:ここらへんが、『ガンダムF91』の連邦軍兵士と好対照を成していて、それがまた味わい深い

*2:作中第四話は、そうした悲劇の連鎖による怨恨が色濃く滲み出た回だった

*3:そしてハマーンの傀儡だった頃のミネバからの成長っぷりに、なんというか、目を細めたくなる場面でもあった

*4:シャアの場合は、ララァ・スンの件があり、グリプス戦役の諸々があったから、人間と人間社会全般にうんざりした事情には酌量の余地はある

*5:ただ、その聖女の誕生に、ジンネマンという成人と、バナージという若者がコミットしていた点は、含蓄深いものではあった