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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

マジョリティが二次創作や脳内補完に親しんでいる社会

オタク趣味

 
 大塚英志緊急寄稿「企業に管理される快適なポストモダンのためのエッセイ」 | 最前線 - フィクション・コミック・Webエンターテイメント
 
 先日、大塚英志さんが書いたKADOKAWAとドワンゴの合併についての文章を読んだ。文章を読み進めるうちに、何か喋りたくて仕方が無くなってきた。面白かった、ということだろう。
 
 特に印象的だったのは、以下のくだりだ。

つまり、KADOKAWAとドワンゴの合併はコンテンツとインフラの合併ではなく、インフラとインフラの合併である。ニコ動とジブリとか、角川と講談社の「合併」(もう何があっても驚いてはいけない)ならインフラとコンテンツの合併になるが、そうではない。

http://sai-zen-sen.jp/editors/blog/sekaizatsuwa/otsuka-%20essay.html

 
 KADOKAWAはコンテンツを販売している会社のようにみえる。けれどもKADOKAWAお得意の「メディアミックス」はシンプルなコンテンツではない。単一の著者による単一の物語だけを販売するのではなく、不特定による二次創作的な作品群やパロディが林立することを前提としたコンテンツだ。大塚英志さんは、TRPGを引き合いに出しながら、彼らが商っているコンテンツ――“歴彦型メディアミックス”――は物語というより「物語生成システム」であると説いた。そうした物語生成システムにオタクが群がって、物語を二次創作したり脳内補完したりして楽しんでいる、と。
 
 一方、ニコニコ動画はネットインフラとして立ち上がってきたけれど、これも早い段階から「物語生成システム」として機能し続けてきた。その最たるものは、いわゆるニコニコ御三家で、ボカロにしても、東方にしても、アイマスにしても、ニコニコ動画に“水を得た魚”のように適合し、数え切れない二次創作的コンテンツを生み出してきた。そのさまは、まさに『web上のコミケ』というほかない*1
 
 もちろん、実際に二次創作的コンテンツを生み出してきたのは、ニコニコ動画に投稿する者と視聴する者、その両者の相互作用にほかならない。ただ、そうした相互作用を妨げず、むしろ促進する場として、ニコニコ動画は見事すぎるほど機能した。この場合、ボカロや東方やアイマスは物語の“種”*2で、ニコニコ動画はさしずめ素晴らしい土壌といったところか。そこに、たくさんのユーザーの欲望・熱意・工夫が注ぎ込まれた結果、ニコニコ御三家は無数の花を咲かせ、二次創作的コンテンツから三次創作的コンテンツへ……といったポジティブフィードバックを産み出した。こうした好循環は、ときに「歌ってみた」「踊ってみた」系の動画投稿にも当てはまる。
 
 だから、大塚英志さんが述べた「ユーザーの創造性を限定的な条件の中で発露させ、コンテンツを提供させるインフラ」は、既にニコニコ動画で起こっている、とも言える。今回のKADOKAWAとドワンゴの合併によって、そうした“二次創作の水耕栽培”はさらに加速し、システムとして磐石になっていくという予測は、そのとおりだと思った。
 
 

こんなに二次創作が溢れる社会って、なんなんだろう

 
 それにしても、こんなに二次創作や脳内補完が溢れる社会って、よく考えたら不思議だ。
 
 二次創作親和的な作品、脳内補完してくれといわんばかりの作品がそこらじゅうに流通し、きっちり消費されている現状。たとえそれが一時代的な傾向だとしても、びっくりするに値する現象ではないか。『pixiv』『小説家になろう』が繁盛しているってのも、物語生成システムの作法を心得ている青少年が、それだけ沢山いるってことに他ならない。この現状を、クールジャパンと呼びたくなる人がいるのも、わかるような気がする。クールかどうかはさておき、とんでもないなことではないか。
 
 70年代の終わりから80年代にも、同人誌を書く人や読む人がいたという。しかし人数はひどく限られ、地方在住の青少年の大半は、そんな世界とは無縁だった。気に入ったアニメを繰り返し観ることは知っていても、二次創作的な楽しみは知らなかった。『ファイブスター物語』や『ロードス島戦記』の時代になってようやく、メディアミックス的な楽しみや同人誌的な楽しみが地方にも流通しはじめたけれども、そういう楽しみに耽るのは、クラスのなかの2、3人程度のものだった。
 
 ところが今はそうではない。脳内補完や二次創作を前提としたコンテンツ消費は、コミケでカートを引きずる人や、分厚いアンソロジーを求めて本屋を徘徊する人の特権ではなくなった。物語を額面どおりに受け止める作法ではなく、キャラクターやシチュエーションを脳内補完的に楽しむ作法、疎な情報量でつくられたキャラクターやストーリーの剰余に自分自身の想像力を塗りこめて楽しむ作法――これが、日本の隅っこにまで普及している。またそうでなければ、ニコニコ御三家にせよ、ケータイ小説やライトノベルにせよ、ここまで栄えなかっただろう。大塚英志さんが定本 物語消費論 (角川文庫)を著して二十年以上、東浩紀さんが動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)を著して十年以上。サブカルチャー領域全体からみれば小さなジャンルで生まれ、発展してきた二次創作と脳内補完の作法は、遂にここまで来た。たくさんの青少年が物語生成システムに馴染み、それを駆使して楽しんでいる社会。
 
 こうなった背景は様々だろう。大昔から同人誌頒布を支えてきた人達の賜物でもあるし、それこそ、KADOKAWAのようなメディアミックス展開のお陰でもある。TRPGやエロゲーやライトノベルといった、様々なサブジャンルが果たした役割も見逃せない*3。ドワンゴをはじめとするネットインフラが“とどめの一撃”になったのかもしれない。
 
 しかし理由のいかんに関わらず、脳内補完的・二次創作的な楽しみが、メジャーと言って差し支え無いネットインフラ上で、マジョリティと言って差し支え無い青少年に支えられているのをみると、隔世の感がある。
 
 冒頭リンク先の後半で、大塚英志さんは、

「インフラの中で創作する」ということは、その中で創作行為そのものもまたインフラに対し最適化する。そして、「創作し易いシステム」として、二次創作型の創造性を誘発するサービスの提供(例えば初音ミク)に「一次商品」は変化していくだろうし、それによって、二次創作されたコンテンツを、受け手はコンテンツとして接していく、という関係が成立する。

http://sai-zen-sen.jp/editors/blog/sekaizatsuwa/otsuka-%20essay.html

 と仰っている。インフラが出来上がっている以上、そこで繰り広げられるコンテンツ消費や二次創作はインフラへの最適化を促され、快適ではあってもシステムに管理された状況を生むだろう、という懸念だ。
 
 『インフラやアーキテクチャが人間の思考の輪郭を決定付ける』という視点に立って考えるなら、この予測は当たりそうだ。というより、ニコニコ動画の動画投稿にせよ、2ちゃんねるの作品投稿にせよ、さらに遡ってパソコン通信への作品投稿にせよ、インフラが作品のフォーマットや消費形式を左右してきたのだから、インフラ最適化問題は今までも起こっていたといえる。もちろん、これからも。
  
 

マジョリティが、自己とキャラクターのてんめん状態を楽しんでいる

 
 それでも、コンテンツってのは売り手と買い手が存在してはじめて成立するものだから、ニコニコ動画やニコニコ御三家がメジャーになっていくためには、それを支える人間が存在しなければならない。それらの呼びかけに呼応した21世紀の青少年、つまり物語生成システムに惹かれる素地のある青少年がこんなに沢山いたことに、私は驚きを禁じえない。
 
 1980年代に物語生成システムを売り出しても、ここまで受容されなかっただろう。それこそ、TRPGや同人誌が(盛り上がったとはいえ)オタクの嗜みの水準を超えなかったように、ほんの三十年ほど前まで、青少年の大半は脳内補完や二次創作の作法についていけなかった。
 
 ところが、三十年後の今では、多くの青少年が、そうしたオタク的な物語消費の作法を心得ていて、違和感無く楽しめている。「売れ筋となる作風が変わった」といえばそれまでだが、では、なぜ「売れ筋となる作風は変わった」のか?なぜ、青少年は、作者が作った物語を字面どおりに追いかけるのでなく、作者が作った物語のフレームを自分達の想像力で肉付けして、そうやってできた二次創作的なシミュラークルを消費するようになったのか?
 
 私などは、そうしたパラダイムシフトの背景に、つい、一種の社会病理のようなものを想像したくなる。
 
 かつて作家が物語をつくり、それを字面どおりに読んでいた時代には、物語はどれだけ楽しくても、感情移入できても、まずは他者がつくった話であり他者が描いた登場人物であることが大前提だった。対照的に、物語生成システムのなかで楽しまれるメディアミックス的-二次創作的なコンテンツ群は、他者がつくった物語という線引きが曖昧で、個人の願望や想像力の滑り込む余地が残っている――というより、個人の願望や想像力を滑り込ませて、シミュラークルを生成することが大前提となっている。
 
 何が言いたいかというと、かつての静的な物語消費において、作者と消費者、作品と消費者は、それなり距離感のある間柄だったのに対し、現代の動的な物語生成システムにおいては、個人の願望や想像力が物語を楽しむ際の必須要素として組み込まれているがために、作者と消費者・作品と消費者の心理的な間合いがとても狭くなっているのではないか、と言いたいわけだ。
 
 脳内補完的なコンテンツ消費、二次創作的なコンテンツ消費は、自己に優しい。コンテンツと自己、キャラクターと自己は、消費者自身がふりかけた願望や想像力によって融合し、自己とキャラクターのてんめん状態になっているため、コンテンツなりキャラクターなりが自己を傷つけたり脅かしたりするリスクは乏しい。「ちょっとでも気に入らない点があったら感情移入できない」的な事態は、つねに最小限に抑えられる*4。物語生成システムから脳内補完(二次創作)したシミュラークルは、他者がつくったコンテンツであると同時に自分で脳内リメイクしたコンテンツでもあるため、半分、自分自身の一部みたいなものでもある。その、自分自身の一部みたいな、自己を脅かすことのないシミュラークルと戯れているわけだから、そのときシミュラークルは自分の愛したいイメージであるとともに、自分自身の願望を映す鏡でもある。いつだってナルシシズムの鏡だ*5
 
 若者文化のコンテンツ消費の主流がナルシシズム親和的なコンテンツで占められるようになり、誰もが脳内補完的・二次創作的にコンテンツやキャラクターを消費するようになった背景には、そうしたコンテンツを求めてやまない消費者のニーズがあればこそだろう。「作者の物語にアプローチしたいんじゃない。俺的な物語が読みたいんだ!」というニーズが既に高まっていたからこそ、物語生成システムはオタクだけのものではなくなり、ニコニコ動画は物語生成システムとして遺憾なく機能したのではないか。社会の若年層のうちに、そのようなナルシシズム親和的な物語、あるいは鏡面を求めてやまない層が、既に十分すぎるほど形成されていたのではないか。
 
 私は、ナルシシズム親和的であることには、良いこともあれば悪いこともあると思っている。けれども度が過ぎれば問題だ。特に、コミュニケーションや人間関係の領域には、大きな影を落とすだろう。にも関わらず、今、日本のサブカルチャーの中心部には、息を呑むほど巨大な物語生成システムが屹立し、そこに物凄い人だかりが出来ていて、生身の人間関係や従来の物語が提供し得なかったような、ナルシシズムのてんめん状態をもたらすコンテンツをつくっては消費し、またつくっている。その、何百万何千万のナルシシズムの息吹には、圧倒されずにいられないし、私もまた、そうした息吹の構成素子だと自覚する。
 
 このような時代、このようなナルシシズムのてんめん状態に慣れ親しんだ人間が多数派を占める社会は、どのようになっていくのだろう?
 
 明確な結論は示せない。ただ、戦慄は覚える。
 

*1:もちろん、ニコニコ動画が『web上のコミケ』として単独で機能したわけでなく、実地の同人誌即売会と相乗効果を起こした、と言ったほうが適当だろう

*2:この“種”自体も、物語生成システムの一環をなすプラットフォームで、今回のKADOKAWAの合併によって、ドワンゴは大量の種を手に入れることになる

*3:最近私は、コンピュータゲームの普及も二次創作的な想像力を膨らませる“訓練”として役立ってきたと疑い始めている。『ゼビウス』や『ドラゴンクエスト』や対戦格闘ゲームなどが果たした想像力の訓練が、案外重要だったのではないか。これについては、日を改めて指摘したい。

*4:ただし、万が一、自己を傷つけたり脅かしたりするような問題がコンテンツやキャラクターに事後的に生じた場合は、自己愛憤怒が起こる場合がある。『かんなぎ』非処女騒動のような類は、その好例と言える 参考: http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20081114/p1

*5:ところで、旧来のマニア、例えば鉄道マニアなり軍事マニアなりの、対象そのものを精緻に追いかける姿勢は、こうしたオタクの二次創作消費から最も遠いものだ。対して、例えば戦闘機や艦船を擬人化してシミュラークルを消費するのは、軍事マニアではなく、文字通り軍事オタクの好むところと思う。『艦これ』が2013年にブレイクした現象もまた、そうしたシミュラークル消費に慣れきった世情と矛盾しないものだった。あの作品は、軍事マニアの増加に貢献することなく、軍事オタクの増加に貢献するだろう。今、艦船プラモデルが飛ぶように売れているというが、彼らは艦船の模造品を買い求めているというより、自らの想像力の触媒を、シミュラークルのよりしろを買い求めているのである。その証拠に、武骨な艦船のフォルムの向こう側に、かわいらしい艦娘の顔が浮かんでくるではないか!