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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

ファスト風土で「本物」と呼べるもの

執着

 
 ファスト風土。
 
 歴史が欠如し、コンテンツも、ネオンサインも、文化的なシンボルも、すべて外部から持ち込んでつくられた画一的な社会空間。いつ頃からか、このファスト風土を哲学者ボードリヤールのハイパーリアルに即して眺めながら、ぼんやり考える癖がついていた。
 
 もともと歴史も文化も無かった山野に突如として立ち上がってきた、コピーアンドペーストと記号で埋め尽くされたファスト風土。ここで見かける文化的なシンボルは、どれも真贋が定まらない。そもそも、誰が真贋を気にしているというのか?国道沿いのガラス工芸品店の“癒し風BGM”を、愛国ラーメンの“こだわり”を、やけに小奇麗な“パワースポット”を、胡乱げに眺め回す人間がどれぐらいるというのか?仮に胡乱げに眺め回したとして、それで社会適応上、有利になるとでもいうのか。そうではあるまい。そうした文化的シンボルひとつひとつの真贋を気にしてまわっていてはきりがない。いちいち真贋を気にしてまわるのは、国道沿いに暮らす人間として、訓練が足りない。そんな事をしていたら、神経衰弱になってしまいそうだ。
 
 

ファスト風土で真贋のはっきりしているものは何か

 
 ここから逆に、ファスト風土で真贋がはっきりしているもの、本物と呼べそうなものは何なのか考えてみる。
 
 まず想起されるのは親子だ。強い身体的結びつきをもって生まれてきた親子の縁は、ファスト風土由来の産物ではない。“ファスト風土の仲良し家族”というイメージは怪しいものだが、少なくとも“血縁”はコピーも交換も不可能で、明確な結びつきとして繋がっている。これをニセモノと呼ぶことは難しい。
 
 この延長線として、「小さい頃からの仲間や、お世話になった人」も挙げて良いかもしれない。物心ついてから、例えばインターネットで知り合いになる不特定多数などと違って、記憶の奥底まで染み込み、個人史をシェアしてきた古い仲間は、コピーも交換も不可能な点において血縁者に迫る。古い仲間の記憶は、それが良縁だろうが悪縁だろうが、コピーや交換は不可能に近い*1
 
 あとは、自分自身が流す汗、だろうか。自分自身の身体性は、それ単体ではコピーできない。夏の日の背中に吹き出た塩の味。
 
 これらは、ファスト風土の、コピーアンドペーストだらけのネオンサインのなかでも真贋がはっきりした、まごうかたなき本物だ。本物と言って語弊があるなら、揺るぎにくさを伴った記憶……と言い直すべきか。売買もコピーアンドペーストも模造も困難で、どんな人間もかならず体感し、どんな時でも追いかけてくるもの。とてもなまなましい、リアルという言葉でも表現し尽くせないもの。
 
 ファスト風土で暮らす人々が、家族、仲間、身体性を大切にする背景のひとつには、案外、こうした本物らしさ、既に生じた記憶の揺るがなさや生々しさがあるのかもしれない(無論、それだけではあり得ないが)。
 
 もちろん、ここで挙げた本物らしさや記憶は、おざなりにしようとする個人を追いかけてくる。逃げ切ろうと思っても逃げにくく、気が付けば回り込まれていることも多い。家族・ズッ友・身体性を重んじるファスト風土の民は、それらによって祝福されていると同時に、血縁がこんがらがった者・ズッ友的な人間関係から逃げ出した者・身体性を遠ざけようとする者には、疎外という名の呪いが与えられる。
 
 その疎外の呪いから逃れるべく、ネットコミュニケーションやサブカルコンテンツで心身を覆い尽すことも不可能ではない……が、ファスト風土的な社会空間に埋もれながらにトライする者は、何年も何年も解呪の詠唱を続けなければならない。やってのける人間もいるかもしれない。やろうとして力尽きる者もいるかもしれない。東京に出て難を逃れようとする者もあるだろう。いずれも簡単ではない。そして肉体や記憶はしつこく追いかけてくる――筋肉少女帯が歌った『鉄道少年の憩』のように。
 

アメリカ―砂漠よ永遠に (叢書・ウニベルシタス)

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ステーシーの美術

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*1:記憶の改ざんや消去がかろうじて可能な場合もあるが、原則として、誰でも任意にできるものではない