読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「努力」についてまわる高度経済成長期の呪い

コミュニケーション

 
 

 
 「努力」。
 
 この言葉をやたらと礼賛する人がいる。
 努力さえすれば必ずなんとかなる。人間、努力が肝心だ。努力せよ、努力せよ、努力せよ……。
 
 私も努力は大切だと思う。しかし、[努力すれば必ず何とかなる]とは思っていない。努力は、成功するための必要条件かもしれないが、十分条件ではない。世の中には、無駄な努力を積み上げた人、非効率な努力を続けた人、見事な努力をしたのに不運にやられてしまった人がたくさんいる。だから私は「努力はしたほうが良い、よく選んで、よく考えて」とは思うけれども、「努力すれば必ず報われる」という思い込みには与したくない。
 
 なにより、冒頭のツイートが示しているように、「努力は必ず報われる」という思い込みは、「報われていないならば、それは努力が足りないからだ」という決めつけと表裏一体の関係にある。この考え方の人間は、報われていない人間、満足していない人間を無意識のうちに疎外する。報われていないと思っている他人を疎外し、もし、自分自身が報われていないと思うなら自分自身を疎外する。実際には、努力が必ず報われるわけがないし、努力が幸福やアチーブメントを予測する唯一の要素でもないのだから、この疎外は、不当である。
 
 

「努力がほぼ必ず報われた時代」の置き土産

 
 問題は、誰もが「努力は必ず報われる」と錯覚しやすい時代があったことだ。
 
 高度経済成長期の日本では、「努力はほぼ必ず報われた」。敗戦後の貧しい日本は、その貧しさから立ち上がり、収入も生活水準も右肩上がりだった。この時代の人達が努力を重ねたことは疑いないし、その努力の土台のうえに、今日の繁栄があることを忘れてはいけない。人々の努力は収入に、生活水準に、必ず反映されているかのようにみえた。「あの頃は、みんな頑張って働いて、みんな豊かになっていったんだよ。」。
 
 この「努力が必ず報われていた」かのようにみえる昔話も、少し角度を変えてみると違って見える。
 
 そもそも敗戦直後が貧しすぎた。日本が空前の豊かさに疾走する直前に、日本は空前の貧しさに見舞われていた。株価もそうだけど、底辺からスタートすれば、何事も上向きやすい。心理的にも「頑張ったら上手くいった」と思いやすい。戦後世代の「努力が報われる」感の原点には、貧しすぎる敗戦からのスタートがある。
 
 そのうえ、朝鮮特需なども手伝って、社会全体が急激に変わっていった。社会は、全くダメな努力しかできなかった人も、実際には努力しなかった人も、(多少の差はあるにせよ)ほとんど全ての日本人を強引に引っ張り上げた。金持ちも、貧乏人も、働き者も、怠け者も、冷蔵庫を手に入れ、テレビを手に入れ、エアコンを手に入れた。食生活は西洋化し、日常の食卓に卵や牛肉が出てくるようになった。
 
 一昔前の世代のなかに「努力は必ず報われる」と思い込んでいる人がたくさんいるのは、当然だと思う。実際、努力は必ず報われていたのだ!どんなに拙い努力しか出来なかった人間も、冷蔵庫を、テレビを、エアコンを手に入れた。補足するなら、「努力の質・量とはあまり関係なく、報われたと体感しやすかった時代」だ。社会全体がエスカレーターに乗っていたから、努力の下手な人や努力を怠る人も、白物家電やメディアの恩恵に与れた。もちろん、人間の生は苦しみや葛藤を伴うものだから、努力の質・量とは無関係に「俺は。努力した。そして報われた」という主観的印象が残るだろう。当該世代は物的に貧しくスタートしたから、物的充実と人生の充実を近似しやすいという点でも“有利”だった。
 
 そんな社会全体のエスカレーターが止まってしまった。
 
 努力を怠る人はもとより、努力の下手な人はあまり報われなくなった。努力の“目利き”がきかない人間には、努力の成果が実感しにくい時代がやってきた。いや、元に戻ったというべきか。どんな人間もエスカレーターに乗って上昇できる時代のほうが、どこかおかしい。
 
 いわゆるロストジェネレーション世代にしても、さらに下の世代にしても、もう、努力だけでは報われないと骨身に染みてわかっている。文化資本や社会関係資本やコミュニケーション能力によって、個人の努力の成果や効率性は大きく左右されるようになった――ほとんどの人間が焼け野原同然から出発した“あのころ”とは違うのだ!――。努力の重要性が減じたわけではないけれど、ただ努力を積み上げただけでは報われない。運も要る。創意工夫の伴わない、自己憐憫的な努力が嘲笑されるようにもなった。
 
 にもかかわらず、世の多数派を占めているのも、発言力のあるポジションを占めているのも、エスカレーターに乗っていた世代だ。彼らは自分達の実体験をもとに、「努力すれば必ず報われる」と発言する。いや、発言しないとしても、価値観や規範意識として、無意識のレベルに染みこんでいれば、そのような価値規範は言動の端々に現れる。
 
 努力だけでは報われないと知っている世代からみれば、たまったものじゃない。「努力すれば必ず報われる」と思い込んでいる人々は、「報われていないお前らは、努力が足りてない」とも思い込んでいるわけで、努力が必ず報われるとは限らない世代は、努力が必ず報われていた世代の非難がましい意識に晒されるようになった。こうした無意識の疎外は、努力が必ず報われる世代が認識を改めるか、寿命によって発言力を失うまで、社会の中心に居座り続けるだろう。
 
 こんな風に、「努力が必ず報われていた時代」の価値規範の反動――それとも呪いと呼ぶべきか――が置き土産として残された。21世紀の壮青年は、努力が必ず報われるとは限らない、競争の時代に晒されていると同時に、先行世代から投げかけられる「報われていないお前らは、努力が足りてない」という疎外にも晒され続けている。それどころか、「努力は必ず報われる」という価値規範をインストールしておいて、その通りに生きられない罪悪感や葛藤を引きずりながら生きているロスジェネ世代も珍しく無いし、そうした罪悪感や葛藤をセキュリティホールとして狙い撃ち、悪事を働く山師もいるようにみえる。
 
 「努力が必ず報われた」時代は、そりゃ良いものだっただろう。しかし、エスカレーターの時代が終わった以上、個人も、社会も、新しい時代に即したかたちで「努力」を再評価しなければならないと思う。ところが、一度インストールされた価値規範はそう簡単には塗り替えられないから、このような齟齬、このような葛藤が、社会のあちこちに残っている。「ある時代において、たくさんの人を力づけた価値規範や思い込みが、別の時代においては、たくさんの人を疎外することがある」という一例として、記憶しておくべき教訓だと思う。そういった教訓のなかでは、本例はわかりやすいほうだし、こういう事は、これからもきっと何遍も繰り返されるだろうから――人間が人間である限り。