シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

私がネットで「承認欲求」を使おうと決めた理由

 
 最後に、「承認欲求と私」というか、この言葉に対する個人的な思い出を書いておく。
 
 先日、あるオフ会で、「承認欲求って言葉が広がったのって、シロクマさんが“戦犯”だよねー」と言われた。私はネット上で承認欲求という言葉を使い始めた言いだしっぺではないが、まあ、沢山使っていたのは事実だから、うーん……言わんとしていることはわからなくもない。
 
 「“戦犯”なんて言わないでくださいよ。この言葉が広く使われるようになったのは、私の“功績”じゃないですか。」
 「でも、罵倒語として使われるようになっちゃったし」
 「それでも私は私なりに、言葉の定義をグリップしようと努力はしてたんですよ。これとか」
 
 “戦犯”という指摘にせよ、“功績”というジョークにせよ、私という一人のブロガーが、「承認欲求」という言葉の流布にどのぐらい影響したのか、正直よくわからない。ただ、私自身、この言葉を使おうと決めるにあたって一種の計算(と後ろめたさ)はあったので、個人的な内幕を嘔吐してしまおうと思う。
 
 

マズローは、コフートの前座のつもりだった

 
 ずっと前から私は、現代人の欲求や執着について知りたくて、その方面の議論や書籍が大好物だった。とはいえ、2000年〜2006年頃の私は、自分の力で議論するには時期尚早……と自覚していて、何人かの理論家のモデルをベースにしながら、学習と実践を繰り返す日々をおくっていた。
 
 そうしたなか、2007年頃からブログ界隈で「承認欲求」が話題になりはじめた。
 
 「俺の大好物が来たぞ!」
 
 嬉しく思う反面、「自分にはまだ早い」と思った。当時の私はコフートの自己心理学を勉強中で、マズローの欲求段階説より、こっちのほうが現代人の執着や社会病理を取り扱うのにずっと向いている、と感じていた。ところが当時の私にはコフートを使いこなせている自信は無く、書籍に書いてある内容と、臨床上/日常生活上の実践とを辻褄あわせできていなかった。そのコフートの理論を使って『萌えるオタクの自己愛心性』という書籍を出版しようとあがいていた*1こともあって、私はコフートをしばらく秘匿しようと決めた。
 
 「じゃあ、何を使って議論に参加しようか?」
 
 そこで選んだのがマズローだった。ビジネス啓発書や教育書の世界ではそれなりにメジャーだし、理屈が単純だし、ブログ界隈で盛り上がっていたし。承認欲求と所属欲求の概念に、コフートの鏡映自己対象理想化自己対象概念と共通している部分があったのも良かった。
 
 「これなら、マズローの皮を被りながらコフートの話がネットで出来るんじゃないか」
 
 マズローの皮を被りながら、内心ではコフート的に考える――私にとって、とても魅力的な計画に思えた。実際にやってみると、承認欲求/所属欲求を使って議論しつつ、自分の勉強を進めていくためのエッセンスを吸収できていたし、マズローに目を向ける人は増えても、コフートに目をつける人は増えなかった。この時点では“計画どおり”だったと思う。
 
 

コフートにはフレーズ力が足りなかった

 
 ところが、いざコフートの自己心理学が手に馴染んでくると、次の問題に直面するようになった。それは、「コフートの用語には、フレーズ力が足りない」という問題だ。
 
 コフートの訳語は、自己対象、自己対象体験、自己対象転移、鏡映自己対象、理想化自己対象、双子自己対象 etc……と、素人さんには区別がまぎらわしいうえ、既に流通している心理学用語と区別して頂くような取り計らいが必要だった*2。つまり、現代社会病理を腑分けするための道具としては優秀でも、一般読者に読んでもらうにはかなりの工夫か、相応の文脈が必要ということだ。
 
 ちなみに私が出版した二冊の書籍では、コフート理論を積極的に採用している。書籍という媒体でなら、コフート理論に説明を割くだけの文字数と文脈が準備できるからだ。ところが、ブログの文字数ではそうはいかない。ブログ記事が、筆者の文脈から切り離されて用いられがちなことを思うにつけても、ブログでコフートを直接引用するのは難しい、と判断せざるを得なかった。もしいつか、コフート理論が超有名になって、誰でも知っているぐらいになれば話は変わってくるのだが……。
 
 結局私は、ブログでは「承認欲求や所属欲求という言葉に頼りつつ、実質的にはコフートの理論で考察し続ける」ことにした。私が承認欲求や所属欲求を語る際、マズローには足りていないはずの発達論的視点が含まれているのは、そのせいだ。コフートの名前が広まらないとしても、他のブロガーと実際的な議論ができるなら良しとしようじゃないか――私はそのように判断した。そもそも発達論的欠落さえ補えるなら、マズローのモデルだってそんなに“使えない”わけじゃないのだ。
 
 
 そんなこんなで、私は今でも承認欲求/所属欲求という言葉を使っている。最初は前座として使い始めたけれど、そのフレーズ力の強さ、字句と語義のフィット率の高さは捨てがたいし、手垢がついた言葉とはいえ、たくさんのネットユーザーにとって既知である点も見過ごせない。それと、この語彙と長年付き合っているうちになんとなく愛着も沸いてきたので、どうせなら一度まとまった見解を書いてみたいと思って、この連載記事をつくってみた。
 
 「好きです、承認欲求」。
 
 

読み続けて下さった皆さん、ありがとうございました

 
 第一回承認欲求そのものを叩いている人は「残念」
 第二回承認欲求の社会化レベルが問われている
 第三回承認欲求がバカにされる社会と、そこでつくられる精神性について
 第四回私達はどのように承認欲求と向き合うべきか
 付録1:ネットで「承認欲求」が使われるようになった歴史
 付録2:私がネットで「承認欲求」を使おうと決めた理由(今回)
 

*1:ちなみに、この『萌えるオタクの自己愛心性』の原稿はあまりにも稚拙で、そのうえ「萌え」を議論するタイムリーな時期を逸してしまったこともあって、完全にボツになってしまった。しかし、今になってみれば、10万字単位で文章を構成し、出版社とやりとりを行うノウハウの第一歩となり、後々になってそれが生きてくることになった。無謀でも何でも手は動かしてみるものだなぁと思う

*2:例:心理学用語として有名な転移と、コフートの自己対象転移は、言葉は似ていても指し示す内容はかなり違っている。参考:http://polar.shirokumaice.com/words/deference_st_t.html