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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

私達はどのように承認欲求と向き合うべきか

執着

 
 第一回承認欲求そのものを叩いている人は「残念」
 第二回承認欲求の社会化レベルが問われている
 第三回承認欲求がバカにされる社会と、そこでつくられる精神性について
 第四回:私達はどのように承認欲求と向き合うべきか(今回)

 
 ここまで、承認欲求について連載してきた。それらを踏まえ、どのように承認欲求と向き合うべきかについて私見をまとめ、結びとする。
 
 最初に述べたように、認められたい・褒められたい・いっぱし扱いされたいといった社会的欲求は、ヒトに生得的に具わったものと思われ、ほとんどの人間に具わっているものと思われる。だから、承認欲求という言葉で表される心理的性向そのものを否定するのは色々な意味で筋が悪い。
 
 承認欲求全般の否定は、おそらく自分自身の心理的性向の一部を否定することにも直結する。そうやって承認欲求に“臭いものに蓋”を続ければ、さしあたり承認欲求周辺の問題から自由になれるかもしれないが、承認欲求の年齢相応な社会化はいつまでも遅れ、承認欲求をモチベーションとした技能習得やアイデンティティ確立が成立しなくなってしまうため、社会適応に大きな偏りを免れないと思われる。
 
 だから、よほど特殊事情を持っている人でない限り、自分自身の承認欲求は、なるべく年齢相応に使ってあげて、モチベーションの源としての熟練度をあげていったほうが望ましい。それも、できれば年齢が若いうちのほうがいい。じゃあ、思春期以降はどうしようもないのかと言ったら、たぶんそうではないと思う。もともと、思春期は承認欲求(や所属欲求)の揺れ幅が大きくなりやすい。そういう季節だからこそ、思春期、特に思春期の前半は、承認欲求の熟練度アップの無理が(ある程度までとはいえ)利かなくも無い。褒められ慣れていない人、認められ慣れていない人でも、承認欲求をモチベーション源にしていくためのトライアンドエラーのチャンスは、ある。恥ずかしい思いをするかもしれないし、黒歴史もできるだろうけど、年を取ってくると、そういう事が格段にやりにくく、許されにくくなる。恥をかくにしても、若いうちのほうが救いがある。
 
 ただし、承認欲求のためならなんでもやって良いわけではなく、逸脱の度が過ぎれば社会からのカウンターが待っているので、それなり注意深さが必要だ。今日の社会では、年齢不相応な承認欲求は馬鹿にされやすく、インターネットは(いろんな意味で)容赦が無い。だから、承認欲求を巡るトライアンドエラーが落ち着いていない人や、自信が無い人は、承認欲求でモチベートされる活動をオンラインではやらないほうが良いと思う*1。そしてオフラインの場合でも、承認欲求をモチベーションとして何をやるのか・どこまでやって構わないのか、いつも気をつけて判断して欲しい。本当は、青少年の逸脱に対してもう少し寛容な社会になってくれたほうが承認欲求の社会化はやりやすいだろうけれど、今となっては無いものねだりなので、現状のなかで、自分自身の承認欲求を少しずつ社会の空気に晒し、自分自身の承認欲求の熟練度レベルをあげていくほかない。
 
 また、もしも承認欲求を不器用に充たしている年下の人を見かけたら、本当にそれを笑って構わないのか、本当に炎上させて良いのか、立ち止まって考えたほうが良いと思う。笑って構わないと判断された場合も、どのように笑うのが適当か検討が必要だ。ちなみに、私自身はそうやって立ち止まって考える習慣がこれまで足りなかった。これは私自身の課題でもある――年少者の成長を願い、喜べるような成人になっていくための。
 
 ここまではミクロの個人の話。
 マクロな社会は、承認欲求についてどう考えればよいのか。
 
 私は、承認欲求や所属欲求が適切な社会化プロセスを経てゆく過程はとても大切だと思っているし、その過程は出来るだけ多くの人にとって現実的で、容易で、個々人の成長や発展に寄与するものであって欲しいとも思う。
 
 しかるに、今日の社会は、承認欲求や所属欲求の社会化プロセスに優しくない。所属欲求優位な時代は過去のものになった。それはまあいいとして*2、承認欲求が個人のモチベーション源として重要な社会ができあがっているにも関わらず、幼児期〜思春期にかけて、承認欲求の社会化プロセスを適切に踏んでいくのは簡単でも当然でもないのは、随分ひどいことだ。
 
 そうした高難易度化の背景には、子どもの生育環境の変化もあるだろうし、共同体的要素の衰退と契約社会的な要素の徹底、若者の逸脱にたいする社会的コンセンサスの変化などいろいろな要因が思いつく。そうした要因のひとつひとつは、社会の発展や快適性と表裏一体に進行してきたものなので、簡単には否定できないし、ひっくり返すことも難しい。しかし、さしあたって今、承認欲求の社会化プロセスが難しくなっていて、それが次世代の精神性に影響を与えているであろう点には留意が必要だとは思うし、今後、どのような社会が理想的な社会なのかを考えていくにあたって、勘定に入れていただきたいとも思う。
 
 

おわりに

 
 承認欲求について4つの記事を連載した。
 
 承認欲求という言葉もマズローの欲求段階説も、成人のモチベーションを分類する点では便利ながら、その承認欲求が社会化され洗練されていく過程をディスカッションするにはあまり向いていない。なので、この連載では、マズロー以外の理論家*3が書き残した欲求の社会化プロセスを参照しながら、承認欲求周辺の問題をまとめてみた。
 
 承認欲求という言葉そのものは、単純素朴というか、モチベーションを指し示すだけのシロモノで、そんなに面白みがあるわけではない。プレーンな言葉だと思う。それでも、その承認欲求が社会化されていくプロセスや、承認欲求をモチベーションとして人間が成長・飛躍していく営みは、やはり複雑で、興味深いと思う。欲求や欲望は、人を躓かせ、惑わせることもあるけれども、基本的には、人を成長へとモチベートし、明日に向かって駆り立てるものだ。欲求を持ちすぎること、不適切なかたちで発露することには問題がついてまわるが、だからこそ、そうした欲求の熟練度レベルを誰もが上げやすい社会が到来し、たくさんの人が内なる承認欲求と上手に付き合っていける境地に辿り着けることを願う。
 

*1:数年前のインターネットとは状況も参加者も質的に変わった。だんだん推奨しにくくなってきた

*2:本当は良くもないのだが、個人の自由やスタンドアロン性を重視する社会において、所属欲求の重要性が低下するのはたぶん仕方のないことのような気がするので、ここでは於くことにする

*3:具体的には、コフート、エリクソン、フロイト、アンナ・フロイトあたり。なので、読む人によっては、一連の話は承認欲求という単語より、別の単語のほうが似合うように感じられたかと思う。