読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

比較検討:『母がしんどい』と『毒親育ち』

 

母がしんどい

母がしんどい

毒親育ち

毒親育ち

 
 毒親――この、どこまでも重いテーマを扱った作品はいろいろあるけれど、漫画は、そういう毒親を表現するメディアとしてバランスが取れているんじゃないか……と思う。少なくとも『母がしんどい』『毒親育ち』は、そういう風に思わせてくれる。もし活字で表現したら窒息しちゃうんじゃないかと思うような内容を、これらの“毒親漫画”は漫画作品として巧みに成立させている。息が詰まりそうでも、ユーモアでどうにか息継ぎが続くというか。
 
 両作品は、1.「児童相談所に通報される手前ぐらいのレベル」「だけど親として相当しんどい」 という点でも、 2.母親が不安定で、その不安定さが主人公の生活や成長に響いているという点でも、よく似ている。また、3.家族の重力圏からの離脱がターニングポイントとして描かれている点や、4.娘である主人公が、家族と対立しながら自立を模索し、家庭を築いている点、5.家庭で身についた処世術が思春期以後も悩みの種になっている といった点も共通している。
 
 ちょっと面白いのは4.だ。かつて、エディプスコンプレックスという言葉が現役選手だった時代、親と子どもの対立といえば、まず父親と息子の対立(と、超克や和解)が連想された。あるいは、家父長的な抑圧による娘の神経症が想像しやすかった。だが、これらの作品では、娘が両親、特に母親に烈しく抵抗を示し、抵抗の末に自立に辿り着いている*1。昨今は、サブカルチャー領域でエディプス的テーマがド直球で取り扱われることが少ないが、その一方で、子どもが親に(特に母親に)抵抗するテーマは案外とみかける。そのあたり、興味深く噛み締めたいと思う。
 
 他方、『母がしんどい』と『毒親育ち』は全くの瓜二つというわけではない。むしろ、幾つかの点では非常に違っている。そうした違いは、どちらの作品により深くシンパシーを感じるのかの分水嶺になるように思うので、以下に、ちょっと比較してみる。
 
 

二つの毒親漫画、その相違点

 
 二つの作品のフレーバーを大きく左右していると感じた点を、表にしてみた。
 

  『母がしんどい』 『毒親育ち』
母親 不安定。家庭内の台風。 不安定。夫の尻拭いをしている感あり
父親 不安定ではない。 不安定。カネを無心
経済状況 困窮していない。中流家庭的 不安定。富裕と貧困の落差が大きい
切り盛り つねに過干渉で自立の妨げに ときに放任的

 
 いざ比べてみると、やっぱり結構違っている。『母がしんどい』からは、父親の不在期間が長い、母子関係だけがグツグツ煮詰まった中流家庭を連想する。母親自身の不安定さが際立つ反面、そのほかの周辺環境は割とまともというか、それほどシビアな印象を与えない。途中から、父親が重要な場面に登場するようにもなっている。
 
 だから、『母がしんどい』はその名のとおり、母親自身の不安定さや過干渉が比較的シビアで、それ以外の家庭環境には比較的問題の少ない*2毒親的家庭環境を描いた作品ということになる。
 
 一方、『毒親育ち』のほうは、まず父親が相当な困り者で、母親の不安定さのかなりの部分(全部ではない)は父親の所業によって生じているように読めた。控えめに言っても、父親・母親の双方の不安定性や社会適応能力の乏しさが娘にのしかかっている。『毒親育ち』の母親は、経済的な困窮のなかでも弁当屋の仕事を続けるなど、案外頑張っているところもあり、ある時期の過干渉っぷりこそ『母がしんどい』に似ているが、それ以外の時期には放任的だったり、家事や子育てを娘に任せっきりにしているところがあった。両作品の母親は、似ているところもあるけれども対照的なところもあって、これが、娘(主人公)が蒙る負担の質感をかなり左右しているように読める。
 
 どちらの作品の環境が「タイムリー」と言えるだろうか。どちらの作品も、それなりに今風でもあり、古風でもある。『母がしんどい』的な、過干渉な母親一人の子育ては高度成長期からみられたものだし、『毒親育ち』的な家庭環境も、これもこれで昔からあったと思う。と同時に、過干渉で不安定な単一養育者による子育ては、21世紀においても珍しいものではないし、両親ともに情緒的/経済的に不安定な核家族も、あまり減っていないだろう。そういう意味では、どちらかの作品が“刺さる”人は多いのではないか、と思う。
 
 

ただし、「毒親的なもの」は遍く存在している

 
 最後に、但し書きをひとつだけ付け加える。
 
 最も健全な部類でさえ、親子関係は理不尽や抑圧の感覚を含んで当然のものだと思う。生の親子関係は、契約書やライフハック書籍のように明示的なものにはなり得ない*3。だから、なんとなく“刺さる”程度の状態をもって、“うちの親は毒親”だと断じてみたり、逆に“自分は毒親ではなかろうか”と心配しすぎたりするのも、それはそれでおかしいというか、毒親という言葉の一人歩きを許す事態になってしまうものだと思う。
 
 うまく表現できていないかもしれないが、「ガチで毒親」と「毒親的なもの」の間には幅広いグラデーションが存在していて、どこからどこまでをガチとみなすべきかは判断が難しく、核家族それぞれの文脈に依存する部分がある。少なくとも「毒親的なもの」ならば、大半の家庭に多かれ少なかれ存在するのではないか?――どこまでも完璧な親と子どもというのは、それはそれで珍しい存在のような気がしてならないのだ。表向きはしっかりした家庭でさえ、台所や寝室の戸棚の奥に、「毒親的なもの」と言えるようなエピソードの一つや二つ、こっそりとしまわれているのが通例ではないか。
 
 だから、そうした但し書きを承知のうえで『母がしんどい』や『毒親育ち』を手に取るのが安全じゃないかな、と思う。どちらの作品もユーモラスな雰囲気がクッションになっているけれど、それでも、読む人が読めばガツンと来すぎるかもしれないし、深読みし過ぎてしまうかもしれない。親であれ、子であれ、記憶の古道具箱に眠っている「毒親的なもの」を思い出す時、人は平静さを失ったり、思念が乱れたりしやすい。まただからこそ、そうした領域が作品としての統合性を保った状態で描かれているのは、貴重だとも思う。興味のある人は、心が静かな時に読むといいかもしれない。
 

*1:ちなみに、これらの作品における娘の抵抗と自立は、時代的にも内容的にもエレクトラコンプレックスとはちょっと違うように思った。

*2:幼少期の生育環境において父親の影がほとんどゼロに近かった、というのは、考えようによってはシビアだが、この作品の場合、実家が近くにあったので、父親不在の影響は幾らか緩和されていたのではないかと推測する

*3:そして生の人間関係を、過剰に明示的にしようとし、明示的ではないものを封じ込めようとし過ぎること自体が、なにやらグロテスクな誤謬を含んでいるように、私には思える