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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

オタクのソロプレイを続けるためには、才能が要る

オタク趣味

 
地方オタクの歳の取り方と、首都圏の人脈について - シロクマの屑籠
 
 昨日書いた上の記事に、「地方でひっそり独りでオタクやってるヤツもいる」「オタクにコミュニティなんて要らないんじゃないか」的なコメントをはてなブックマーク上で頂いた
 
 地方に限らず、オタクコミュニティに一切所属せず、ソロプレイでオタクをやっている人は現在進行形ではたくさんいるだろう。“オンラインコミュニティにだけは所属している”人も含めれば、その数はもっと多くなるに違いない。
 
 そうじゃない。私が問題にしたいのは、「オタクのソロプレイって、始めるのは簡単だけど、続けるのは難しいんじゃないですか?」ってところだ。一匹狼オタクを気取るのは簡単だが、一匹狼オタクをいつまでも続け、それなりの情熱を維持できる人間は限られている。だからコミュニティに属しにくいエリアに住んでいると苦労するんじゃないのかな……と思うのだ。
 
 オタクに限らず、特定の趣味やスポーツを、ソロプレイで三年五年と続けるのは、実はそんなに難しくない。しかし、これが十年、二十年となるとどうだろう。日常生活、仕事、家庭、友人関係……。これらを伴わない趣味を続け、輝くような情熱をもって趣味生活を続けることには、かなりの困難が伴う。今、十代〜二十代の人達は、そのあたりについて高をくくっているか、想像不可能か、どちらかではないだろうか。少なくとも私はそうだった。
 
 「暮らしの積み重ね」ってやつは、案外、人間の情熱や考え方を変化させる。一年では変わらなくても三年で、三年では変わらなくても十年で。そうした変化を「変節」「優柔不断」と取る人もいるかもしれないが、社会適応の観点からみれば、そうしたフレキシビリティがあったほうが人間は生活環境に馴染みやすく、暮らしに適応しやすくもなる。むしろ、暮らしやコミュニケーションに全く資するところのない趣味に、時間や金銭や情熱を費やし続けるほうが、「どうかしている」。
 
 逆に言えば、間近な社会生活やコミュニケーション上の“事情”に左右されることなく、暮らしと無縁の趣味に耽溺し続けられるのは、誰でも簡単にできることではない、ということでもある。暮らしと無縁の領域にリソースを注ぎ込み続ければ、当然、暮らしそのものを痩せさせるリスク、社会生活上の支障を孕むリスクを冒すことになる。そうしたリスクは、若いうちは度外視できるかもしれないが、年を追うごとに、人間関係、生活、なにより身体に蓄積して、真綿で首を絞めるように趣味の継続を阻んでいく。 
 
 もちろん大半の人は、どこかで危機感を感じて、暮らしや人間関係にリソースを割り当ててバランスを取ろうとするだろう。だが、バランスを取ろうとすれば、そのぶん趣味生活の濃度は下がる。そして暮らしの領域のコミュニケーションやエンタメに喜びでも感じようものなら、そちらに一気にもっていかれることも多い。かように、ソロプレイでマニアの道・オタクの道を継続するのはとても難しい。
 
 対照的に、交友関係や生活半径のなかに自分と同じオタク趣味の理解者や愛好家が複数いる場合は、趣味へのリソース投下は、暮らしやコミュニケーションとは完全に競合するわけではないので、暮らしや人間関係のために趣味へのリソースを削らなければならない、なんてことも起こりにくい(起こったとしても程度が少なくて済む)。むしろ、人間関係の鎹として役立つようであれば、その趣味へのリソース投下が加速されることさえあるかもしれない*1
 
 暮らしや人間関係に背を向けて、ソロプレイのオタクをやるか。
 暮らしや人間関係との競合の少ない、マルチプレイなオタクをやるか。
 
 この違いは短期的には無視できる。だが「塵も積もれば山となる」わけで、歳月の積み重ねは、趣味生活の内実や情熱を、おおきくねじ曲げるだろう。
 
 そのうえ、歳を取ってくれば新しい作品に対する感受性も下がっていくから、勢い、「昔のアニメは良かった」「昔のゲームは良かった」的な、懐古厨になりがちだ。そうなれば情熱は一層冷えて、趣味生活も固定化していく。もはや、オタクというよりオタクの化石である。
 
 

ソロプレイのオタクを貫徹するための才能とは

 
 以上を踏まえたうえで、ソロプレイのオタクやマニアに必要な才能やリソースについて書き出してみる。
 
対象コンテンツに対する純粋な欲求の高さ:昔、「おたく」をフェティシズムの文脈で語っていた人がいたけれど、まさにフェティシズムに相当するような、コンテンツに対する異様な欲求、あるいはどうしても手放せない心理的事情があれば、暮らしやコミュニケーションを逼迫するようなオタクライフを否応なく続けざるを得ない。俗に言う「ビョーキ」というやつである。
 
 ・金銭:暮らしにもコミュニケーションにも役立たない趣味に大枚をはたき続ける、という行為は、本来的に贅沢なことである。その贅沢を支え、なおかつ食っていける状態を維持するためには、一も二も無く、まずカネが要る。カネが極端に無くなってくれば、オタクを続けたい情熱がみなぎっていてさえ、趣味生活が痩せ細っていくリスクが高くなってしまう。
 
 ・時間:カネ同様、あればあるほど良い。どんな趣味でも、時間は必要だ。そういう意味では、独身のほうがソロプレイのオタクを続けやすいかもしれない。オタクとして理想的なのは、金銭と時間が両方あり余っていて、道楽にドップリ漬かって不自由無い身分だが、たいていの人にとって、そんな身分は望むべくもない。
 
 ・生命力:古来、ストイックなオタクやマニアが若くして健康を損ね、命を落とす話は枚挙に暇が無い。金銭や時間の不足をバイタリティで補いたい場合などは、体力、というより生まれもっての生命力の強さが試される。そうでなくても、早々と病気をしてしまっては趣味生活の持続に支障を来すわけで、二十年選手、三十年選手になるためにはそれなりの生命力が必要だ。
 
 ・空想力&自家発電能力:流行り廃りを度外視して、ひたすら自分の趣味の世界に没入し、古いコンテンツをモチーフにした二次創作、あるいはオリジナル創作による自家発電能力があれば、ヘンリー・ダーガーのような、孤独だが壮大な趣味生活を実現できるかもしれない。ただし、ダーガーほど孤独に強く、ダーガーほど空想力の豊かな自家発電者は、おそらくきわめて少数と思われ、そのような人は、ネットコミュニケーションと殆ど無縁な生活をしている可能性が高い。
 
 ・情熱の自己循環システム:承認欲求のような、他人のまなざしに左右されやすい要素で趣味の情熱がコロコロ変わる人は、ソロプレイよりもマルチプレイでキャッキャウフフしていたほうが、趣味人としてずっとやりやすい。そうではなく、他人の目線にブレることなく情熱を自己循環できるようなシステムを持っていたほうが、ライフイベントや人間関係に左右されることなく、真っ直ぐな求道をキープしやすい。
 
 こうやって書き出してみると、ソロプレイのオタクを還暦ぐらいまで貫徹するのはいかにも大変そうで、才能や環境や運に恵まれた“選ばれた人”でなければとても続かなそうに思えてくる*2。もともと人間は社会的生物なのだから、趣味人ひとつやるにしても、独りぼっちは、寂しくて大変なのである。その寂しさを才能や財産で中和できる人間だけが、ソロプレイのオタクを続けられるのであって、そうではない人間は、悪いことはいわないからマルチプレイのオタクライフを志向するか、疲れたらオタクなんてやめて、元オタクなおじさん/おばさんになってしまったほうがいいんだろう――群れたからといって、オタクをやめたからといって、恥じるようなことでもあるまいし。
 
 

補足:「オンラインだけの縁」はあてにならない

 
 なお、私は「オンラインだけに完結した交友関係」にすこぶる懐疑的なので、「オンラインだけでキャッキャウフフするオタクライフ」は成立しないという前提でこの文章を書いている。もちろん、オンラインで知り合った縁が発展して、オフラインでの人間関係がスタートしている場合はこの限りではない――オフライン込みの人間関係なら、縁の育て方次第で、さまざまな可能性が考えられる。
 
 オンラインだけの人間関係は、交換可能で、いつでも切れて、実際、すぐ切れる。短期的には、そうしたオンラインなマルチプレイは相応に情熱を下支えするだろうし、情報をもたらしてくれるけれど、長期的にみると、趣味を下支えしきれないのではないか。第一、サムネイルアイコンはみえても顔の見えない関係である。「オンラインでキャッキャウフフしていれば趣味人としてノープロブレム」という見方は、私はテクストを信用しすぎだと思う。顔や表情がみえる効果、身体性を伴ったコミュニケーションの効果を、過小評価しすぎだとも思う。人間は、純粋なテクスト情報生命体じゃない。
 
 もちろん、「オンラインだけの縁で俺はマルチプレイオタクを続けるんだ」と血気盛んな意見もあるだろう。ひょっとしたら、上手くいくかもしれない。だが、その帰趨が明らかになるのは数十年後である。「君は生き延びることができるか?」
 
 そんなわけで、私は一匹狼のオタクは難しい、と思う。少なくとも、万人に勧められる生き方ではない。相応しい素養を持った人が、経済力・時間・体力・運に恵まれてはじめてソロプレイが成立するものだと思ってかかったほうがいい。
 

*1:もちろん、程度がひどくなればIT業界で言われたところの「接待のためにまどか☆マギカを見に行く」的問題が起こるわけだが

*2:少なくとも、私のような人間には到底無理である