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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

模倣・自作・車輪の再発明の重要性

コミュニケーション

 
 「ごっこ遊び」って悪いこと?/自己満足で終わらないために - デマこい!
 
 リンク先に書いてある「模倣」の重要性。
 
 模倣は、文章上達にとても役立つ。ただ、模倣やコピーだけで上達するのではない。そのあたりについて、補足してみたい欲求が沸いてきたので、空き時間で書けるだけ書いてみる。
 
 

模倣についてまわるリスク

 
 「まず、上手な人のかたちを真似てみる」「形からはいってみる」のは実際有効で、ジャンルを問わず、文章を書く人にとって有益と思う。私も、人のウェブサイトを見てあっちこっち模倣させてもらったり、ブログの書き方、ネット揉め事の楽しみ方をマネさせて頂いている。参考にした本も数知れない。
 
 ただ、この模倣、あまりにも素晴らしい人を尊崇し、コピーを心がけすぎてもたぶん駄目だ。ゲーテは、

 芽生えつつある才能にとってシェイクスピアを読むことは危険である。 シェイクスピアは否応なしに彼らをして自分を模作させる。

 
 と書いている。偉大なシェイクスピアに心酔すると、物書き志望な若者は、ついシェイクスピアの模倣に夢中になってしまって、劣化コピーに突き進んじゃうかもしれませんよ、ということだ*1。今日、シェイクスピアに感動し、真似ようとする若者はたぶんあまりいない。けれども村上春樹をはじめ、特定の作家、作風に憧れ、一生懸命模倣して劣化コピーになっちゃっている人は、たぶんいる。二次創作の盛んな今日では、複数の作家の文章やフレーズを丁寧に模写してまわる、コラージュ業者のような人もいるかもしれない。
 
 そうした模倣、模写、コラージュは、他人の真似は上手くなるかもしれないが、まっさらなところにまっさらなものを書く習熟度を与えてくれるわけではない。やりすぎ危険とまではいかなくても、模倣一筋では本当に猿真似屋になってしまうんじゃないか、とは危惧される。
 
 

模造品に、どこまで自分の独自性、あるいはオリジナリティを付与するか

 
 じゃあ、どうすれば劣化コピー問題を回避できるのか?
 実際に多くの人がやっているように、自分が書きたいことを、書きたいように書けばいいんだろう。
 
 ただし、達人の文章のおいしいところを模倣しつつ、自分の思いの丈をそこに混ぜ込み、表現として破綻しないようにするのは思いのほか難しい。コピー元に対する模倣精度が高ければ高いほど、その難易度は高くなってしまう。
 
 だからたいていジレンマが発生する――模倣の精度を優先すべきか、模倣の精度を落としてでも自分が表現したいこと、表現したいフレーズを混ぜ込むべきか。
 
 よほど杓子定規な人、あるいは超天才でもない限り、ブログでも、二次創作小説のたぐいでも、誰かを手本にしながら自分の文章を書く人は、このジレンマのなかで折り合いをつけながら、コピー元からは技術を、自分自身からは表現を引き出すトレーニングを(無意識のうちに)やっていくんだろうと思う。そういうトレーニングがなければ、いくらコピーしてもコピー元の技術は自家薬籠中とはならず、他人の文章はいつまでも他人の文章のままだ。自分自身の表現、自分自身が表現したい方向性へと馴染ませるためには、両者を鉢合わせ、目の前のテキストのなかでできるだけ調和した状態にもっていけるように、やっていくしかない。はじめのうちはコピー元の文章に圧倒されがちで、自分自身の表現を混ぜ込んだ部分だけがみっともなく浮き上がるかもしれない。あるいは逆に、自分の書きたいことばかり出しゃばって、コピー元の様式がほとんどフィードバックされないかもしれない。けれども、そういうトライアルを繰り返していかないと、たぶん、コピー元の“おいしいところ”はなかなか盗めないような気がする。
 
 

「車輪の再発明」を恐れてはいけない

 
 いわゆる「車輪の再発明」を恐れてはいけない。特定ジャンルのプロ作家をいよいよ目指す、ぐらいの段階なら話は違ってくるかもしれないが、少なくとも、ある程度自分が好きなように好きなことを書けるようになるまでは、車輪はどんどん再発明すべきで、そのような車輪の再発明には意味がある。
 
 「あの人の文体を参考にしながら、自分オリジナルな考えを盛り込めたぞ」と思った時、本当にオリジナルなものが盛り込めているかは、実際には怪しい。ジャンルにもよるが、素晴らしい着想と思ったものが、全く同じ意味・同じ文脈で、数年〜数百年前の誰かによってつくられている、ということは頻繁に起こることだ。
 
 そういう車輪の再発明を他人に開陳した時、「お前、これは○○って人がもう書いたことだよ」と指摘されると、なにか、しようもないことをしてしまったように感じるかもしれない。けれども対外的にはともかく、自分自身の書き物修練という点では、車輪の再発明は成功の部類に入る。大切なのは、できるだけコピーに頼らず、自分なりの思路や文脈にもとづいて自力で考えをまとめあげられること、自力で車輪がつくれるということではないか。
 
 もちろん、過去にどのようなアイデアが発明済なのかを参照する作業も大切だけれども、ただそれだけでは自力で車輪をつくる力は養われない。あるいは、先人が発明した車輪とは似て非なる、現代の文脈に換骨奪胎された車輪を生み出すことも難しいのではないか。
 
 プロの作家になるかならないかの時期になれば、車輪の再発明なんてやっていられまい。が、少なくとも趣味のレベルでは、車輪は再発明できないよりは再発明できるほうが好ましく、そのような自力-開発力が、本当に未知のアイデアをひねり出す基礎体力になるのだと思う。100年前の車輪を現代風にアップデートするとか、宙を浮く車輪を生み出すとか、そういった発展性にもきっと繋がる。
 
 

他人に読んでもらうのは諸刃の剣

 
 あとは、あれか、書いた文章を他人に読んでもらう機会があると、上手くなりやすいんじゃないかとは思う。モチベーションが得られるかもしれないし、欠点を教わって次の文章に生かせるかもしれない。
 
 ただし、人に見てもらうというプロセスは諸刃の剣でもある。
 
 人に見てもらって褒められるのがうれしいうちに、褒めてくれる人の嗜好に染まってしまうかもしれない。それで得るものもあれば、失うものもあるだろう。欠点を指摘され、それに従うことも、やり方を間違えれば極端な萎縮を招いたり、迷子になったりするかもしれない。
 
 主観的には、「人に見てもらう」副作用を最小化し、メリットを最大化できるのは、ブレない人だと思う。人の顔色ばかり伺って、自分が書きたいことより人の顔色を優先させる人は、モチベーション獲得とひきかえに、誰の文章とも、誰のプロダクツともしれないものを書き続けることになるかもしれない。少なくともアマチュアの世界には、そういう、操舵の利かない幽霊船のような書き手が案外いたりする。
 
 人に褒められるモチベーション、人に欠点を教わるオープンさは、必ずプラスに働くとは限らない。むしろ、他人の目の届かないところで、誰にも茶々を入れられずに文章を書いていたほうが捗ることも多い。このあたり、自分が他人の目にどれぐらい敏感で、どれぐらい依存しやすそうなのかを勘案して、自己調整していくしかない。

 特にネットにモノを書くような人間にとって、今日日はそうした自己調整はたぶん必須だ。他人の目に対して自分がどれぐらい敏感で、どれぐらいブレにくいのかを知ったうえで、文章を書く場所、置く場所、みせる場所をきちんとマネジメントできなければ、きりがない。
 
 

まとめ、というか飽きてきたのこのへんで

 
 コピー/自作の比率をどうするか。
 どこまで先達の発明を検索し、どこまで車輪を再発明するのか。
 どこまでネットに公開し、どこまでチラシの裏で練習するか。
 
 反復練習の最適比率は、個人ごとにケースバイケースで、正解/不正解は断言しにくい。けれども、もし、モノを書きづらい、うまくいってないと感じている時には、これらのバランスをちょっと変えてみるか、見直してみるのはいいことじゃないかとは思う。
 
 ともあれ、まず最初に「たくさん書く」ありき、でしょう。一日2000〜3000字、毎年毎年書き続け、そのうえで本を読み漁っていれば、なにかしらの進歩とか成長とか、そういうのあるんじゃないでしょうか。偉くなりたいとか、余計な欲目さえ考えなければ、そういった進歩と成長の証であるところのプロダクツは、自分自身を裏切らないんじゃないかと私は思っています。
 

*1:格言の主旨は、「シェイクスピアマジヤバい」のほうだろうが