シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

夢を忘れた大人になってしまった。

 
 見たい夢が想像できなくなってしまった。
 ここでいう夢とは、寝しなに頭のなかにぼんやりと浮かべる、気持ちの良い空想や夢想のことである。
 
 昔から俺は、寝しなに気持ちの良い空想に耽るのが大好きだった。それほど不幸な小学生だったわけではないにしても、現実には思うに任せないことがたくさんある。親もうるさい。けれども就寝前のひととき、自分の好きな空想を思い描いて、そうしているうちに眠りに落ちる瞬間だけは自由で、誰にも邪魔されない。そうやって、空想の飛躍した、願望丸出しの夢とたわむれているうちに、いつしか意識がなくなり、睡魔に身を委ねる……それが黄金パターンだった。
 
 小学校高学年の頃のトレンドは「ドルアーガの塔」だった。寝しなの俺は、無尽蔵にのぼっていける、宝箱にみちた奇跡の塔を毎晩毎晩延々とのぼり続けていた。宝箱の中身や冒険譚は、ありとあらゆる他のゲーム*1や神話から輸入し、今風に言うなら二次創作を脳内で続けていたので、飽きてしまう心配は無かった。小学校高学年の平均的な妄想力や空想力がどれぐらいのかは分からないが、少なくとも俺は、2年近くにわたって終わることのない塔登りとトレジャーハントに明け暮れた。
 
 中学校。第二次性徴を迎えて夢は桃色に染まった。最近のライトノベルにありそうな、「主人公無双のハーレムもの」と大差ない夢想にご都合主義をふりかけた、ジャンボフルーツパフェのような夢に耽溺した。だから俺は、男性ティーン向けのライトノベルが主人公無双ハーレムものに収束していった理由がわかるような気がする。少なくとも俺は、そういう合成着色料たっぷりな夢想が好きだったし、性欲と想像力が直線的なこの時期に、そういうハーレムものはジャストフィットしたのである。不登校を経験し、“なんとか進学校に進まなければ人生詰むな”と思っていたためか、当時の夢想のテーマは「脱出」だった。機動戦士ガンダムシリーズに登場するジオンの残党のように、小惑星基地を使って地球圏を脱出する――一緒に脱出するのは女の子達だ!!――そういうモチーフを繰り返しこしらえては壊し、こしらえては作り直した。
 
 こういった夢想のたぐいのいいところは、小回りが利くところ、自分が好きなようにアレンジできるところだ。
 
 1980年代後半〜90年代前半にも、それなりにハーレムなコンテンツがあった。例えば『ああっ女神さまっ!』や『無責任艦長タイラー』のような。邪気眼中二病系のコンテンツも無いわけではなかった*2。ついでに告白すると、俺は『サイレントメビウス』――90年代の黒歴史だ!!――の熱心な読者でもあった。
 
 けれども、そうした作品は他人がつくった売り物だから、自分の願望にジャストフィットしているわけじゃない。自分が見たい夢、自分が読みたいストーリー、自分が溺れたいシチュエーションは自分の脳内で組み立てなければできあがらないのだ。当時、地方の学生に入手できるコンテンツの種類はまだそれほど多くなかったし、昨今のライトノベルのように洗練されてもいなかったから、出来合いの作品で満足するより、寝しなに自分でエディットしたほうが満足しやすかった。だからバンバン脳内で誇大妄想を膨らませた。夢がひろがりんぐ、である。
 
 ただ、こうした夢想は高校大学と進むにつれて広がらなくなった。ひとつには、俺が本当に眠くなるまで活動し続けるようになったから、というのもあるだろうし、もうひとつには、自分で夢想するまでもなく、常に大量のコンテンツに囲まれるようになったからでもあるだろう。『アドバンスド大戦略』『ダライアス外伝』『新世紀エヴァンゲリオン』……お気に入りのコンテンツにどのようにかじりつくか、お気に入りのキャラクターの命運をどう想像するか、そういう事を考えているだけで俺は満足するようになっていった。そこには二次創作性というか、自分自身の願望や夢想をふりかける手癖が残ってはいたけれども、キャラクターやストーリーのフレームは完全に作品本体のものがメインとなって、夢想の展開範囲というか、エディットをきかせる範囲は狭くなった。
 
 なにより俺は、現実のことを考えるようになった。コミュニケーションできるようになりたい、技能を身につけたい、今度の問題はどうすればいいのか――そういった夢想とは無縁のシンキングが、寝しなの時間を浸食するようになった。多くの人は、空想に溺れるよりは現実に直面したほうが建設的になれる、と言うものかもしれないし、当時の自分を振り返っても「ああ、空想家じゃなくなって良かった」「社会適応!社会適応!」と思っていたふしがある。それで良かった部分もあるだろう。しかし俺は夢からは遠ざかった。想像力と妄想力の飛翔距離は明らかに短くなった。
 
 さらに歳月が流れて。俺は寝しなに夢が描けなくなってしまった。
 
 ほんの数年前までは、海外産シミュレーションゲームを題材にした夢想がマイブームで、『シビライゼーション3』や『Heart of Iron 2』あたりを使って自分のみたい夢を見た。俺は自分でmodをつくるのが大好きで、それを実地で遊びながら空想を膨らませるのが好きだった。これらの海外産ゲームはJ-RPGのようなストーリーの押しつけからも自由で、グラフィック面が良い意味でショボいので、自分だけの空想を弄ぶにはとても向いている。
 
 ところが、これも何遍も繰り返してくるとゲームそのものに夢が浸食されてくる。また、ゲームプレイの必然として「攻略」について云々しはじめてしまう。modを使った遊びは自分の技倆にすれすれいっぱいの難易度で遊ぶのが一番楽しいので、つい、真剣に遊んでしまう。すると、次の一手をどうするか、反攻作戦をいつやるか、そういうことをどうしても考えてしまう。やがてゲームは夢想から計画へ、そして現実へと移り変わっていく。ゲームは開けっぴろげな夢想から実現可能性へと絞り込まれていく。
 
 そして俺はますます現実のことを考えるようになった。日常の些事にこづき回され、あれもやろう、これもやろうと考えたままでは夢想モードに入れない。いや、現実のせいにしてはいけないか。昔はしんどい現実があっても、速やかに夢想転生できたじゃないか。夢のスイッチ、妄想の扉。ところが今の俺ときたら、なんにも妄想できないていたらく、はては「明日呑むワインをどれにするか」を想像するのが一番気持ちいいとは!なんたるざまだ。
 
 これが、夢を忘れた大人になるということなのだろうか?
 
 たぶん、少し違うのだろう。しかし、俺の空想力や妄想力に陰りがみられること自体は認めなければなるまい。昔の俺はもっと妄想技術力が高かったし、想像の飛躍の無理が利いたはずだ。少なくとも、ZZガンダムの主題歌*3で歌われていたような、常識という眼鏡ごしでは覗けない世界を俺は頻繁に覗いていたはずだ。しかし、地に足がつく暮らしとコミュニケーションを志向してきたなかで、俺は“夢を忘れた古い地球人”になってしまった。世間の重力に魂を奪われた人間、p_shirokuma。
 
 それで良かったのか?
 良かった、と答えたい。
 俺はそういう適応至上主義な成人をこそ夢見ていて、そのような成人にたぶんなったのだから。夢が叶ったら代償として夢を忘れるのは、お似合いでもある。いつか、その報いを受ける日が来るかもしれない。しかし今は現実を生きよう。この現実、この適応の坂道を俺はのぼりはじめたばかりなのだから。
 

*1:例えば『ザナドゥ』や『ファイナルファンタジー』のような

*2:『BASTARD!』のような

*3:『アニメじゃない』。秋本康さんが作詞をやっている