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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「大の大人がゲームをする必然性」を自問自答するのも悪くない

執着 オタク趣味

 
 大の大人がゲームをする必要がどこにあるの はてな匿名ダイアリー
 
 リンク先の問いはシンプルだ。「大の大人がゲームをする必要があるの?」――もっと楽しい事があるんじゃないか、もっとためになる事があるんじゃないか、もっと奥の深い営みがあるんじゃないか――まったくその通り!時間も、金銭も、体力や精神力さえ効率性を求めてやまない現代人。その現代人が、コンピュータゲームに大量のリソースを配分するのは、非効率きわまりないようにみえるし、ある種、自己矛盾を孕んでいる。
 
 だから、ゲームに多大なリソースを費やしてやまない現代人なら、どうして自分がゲームにリソースを費やすのか、一度や二度、真剣に考えてみたっていいのではないか――というより、ゲームに大量のリソースを“賭ける”人こそ、自分が何のためにゲームに金銭や時間を費やしているのか、少なからぬ代償とひきかえにゲームからどのようなベネフィットを得ているのか、自覚的であって然るべきだろう。目の前の好奇心や刺激に振り回されるばかりの小学生ならともかく、思慮分別において小学生を凌駕する大人であれば、尚更だ――「五年も十年もゲームをやりこむことに、意味はあるのでしょうか?」
 
 しかし、なんらかの理由でゲームを愛してやまない人なら、こうした問いは、そんなに怖いものではない筈だ。少なくとも、逃げ回らなければならない問いではない。ゲーマーたるもの、ある種の必然性に導かれてゲームをやらずにいられない、なんらかの「理由」や「事情」がある筈。即座に言語化できるものではないかもしれない。しかし、とにかくも「ゲームじゃなければ駄目なんだ!」という必然性、他の活動や娯楽では埋め合わせられない何かが自分のなかに存在しているからこそ、コントローラを弄り回しているのではないか。そうでなければ、ピコピコに対する汲めども尽きない情熱、ゲームに対する執着など沸いてくるまい。
 
 理由や必然性は、十人十色、ゲーマーの数だけ存在するだろう。
 現実ではなかなか体験できない疑似体験をゲームに求める人もいる。自分のなかの攻撃性、スリルを安全に社会化する手段として遊んでいる人もいるかもしれない。思春期のある時期、たまたま誰かに「君、ゲーム上手いね」って言われた偶然が必然性だったとしても、驚くにはあたらない。現実逃避の類だって立派な必然性のひとつだ。誰もがヒーローやヒロインになれる世の中ならいざ知らず、個々人に与えられた現実はときに厳しく、ときに狭い。そうした厳しさや狭さから一時離れ、そうではない自分を仮想してみる営みも、大の大人がゲームをする理由として、そう珍しいものではないし、そのような必然性に駆られてゲームをやってはいけない道理もない。
 
 もちろん、人それぞれの「ゲームをする必然性」を、ある人は軽蔑するかもしれないし、ある人は理不尽とみなすかもしれない。しかし、それらは第三者による評価でしかなく、ゲーマーそれぞれに必然性が存することとは別個の命題だ。そして第三者の評価に関わりなく、自分自身が抱えているゲームプレイの必然性にフィットしたゲームライフを追求するのが、ゲーマーのあるべき姿ではないか。
 
 私は、「大の大人がゲームをする必要があるの?」という問いかけは、他人のゲームライフや過去のゲームライフを否定するために使うのではなく*1、自分自身のゲームライフを問い直し、自分のニーズに合致したゲームライフや(自分自身のための)ゲーム鑑識眼を研ぎ澄ますために使ったほうが建設的だと思う。そしてもし、答えに相当する必然性が見つかったら、他人が何と言おうが、世間のまなざしがどうであろうが、その答えは大切にしたほうがいい*2。自分自身に嘘の少ないゲームライフであれ。
 

*1:そんな営為に効率性があるとは思えない

*2:念のため断っておく。ここでいう「大切にしたほうがいい」とは、ゲームをやらずにいられない必然性にどこまでも身を委ねろ、という意味ではない。その必然性を必然性と認めたうえで、どこまで自分にそれを許し、どこまで節制するのかを自分で決めろ、そして他人任せや他人のせいにするな、という意味だ。何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」なのは言うまでも無く、必然性があるからといって、ゲームに全リソースをつぎ込んでしまえば、ゲーム以外の社会適応領域が著しく阻害されるだろう。