シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

孤独なニュータウンの近未来――もし、アメリカの後を追いかけているとしたら

 

地方にこもる若者たち 都会と田舎の間に出現した新しい社会 (朝日新書)

地方にこもる若者たち 都会と田舎の間に出現した新しい社会 (朝日新書)

 
 生活環境を語るアングルとして「都市」「地方」という二分法が有効だった時代が過去のものとなり、中核都市でも過疎地域でもない「郊外」が台頭してきて、数十年が経ちました。全国一律な国道沿いの風景――いわゆるファスト風土――の成立も相まって、郊外に造成されたニュータウンは、日本人の新たな故郷、そして標準的な生活環境になりつつあります。
 
 昭和時代のニュータウンは、地域のしがらみから開放された新環境で、そうした自由を多くの人が夢見ていました。もちろん「マイホームを持ちたい」という夢は、ダイワハウスや積水ハウスのような住宅業者、鉄道沿線の宅地開発に関わった業者によって“煽られた”夢ですが、そうした“煽り”が成功するだけの余地や潜在的ニーズがあったからこそ、人々は長大なローンを組み、埼玉県・神奈川県・千葉県といった地域に、広大なニュータウンを成立せしめたのでしょう。
 
 しかし、生まれながらニュータウンに育ち、幼い頃からジャスコやヤマダ電機に通っていた世代にとって、ニュータウンとは夢でもなんでもない、所与の生活環境です。彼らにとって、ニュータウンの自由とは求めて獲得したものではなく、生まれながらに与えられたものでした。生まれながらに与えられたからこそ、新しい世代にはニュータウンに即した社会適応のかたちと精神病理が育まれ、ニュータウン以前の世代にはみられない運動や葛藤が生じてもいます。冒頭で紹介した『地方にこもる若者たち』は、そうしたロードサイドの新世代の社会適応にアプローチした書籍でした。
 
 では、この自由きわまりない、しがらみの希薄なニュータウンの暮らしはどうなっていくのか?このテーマについて参考になりそうなアメリカの本を読み、思うところがあったので、自分の頭を整理する一助としてここにまとめておきます。
 
 

日本より先に進行したアメリカの郊外化・ニュータウン化

 
 アメリカ合衆国は、昔から自由の国といわれてきました。そのアメリカが歴史的に培ってきた自由と、ニュータウンの自由とは、似ても似つかない何かです。19世紀のフランス人、アレクシス・ド・トクヴィルは、
 

 アメリカ人は全ての年代で、生活の中の至る所で、そしてどんな傾向を持っていても、ずっと組織を形成し続けている。それは、全ての者が参加している商工業組織に限らず、その他無数の種類がある――宗教的、道徳的、真面目な、あるいはどうでもよい類のもの、非常に幅広いものもあれば、非常に狭いものもあり、巨大なものもあれば、非常に小さいのもある……私の見たところでは、米国では、知的、道徳的組織が最も注目を集めているようである。
 トクヴィル『アメリカの民主主義』*1

 と評しています。トクヴィルが見たアメリカの民主主義、そしてアメリカ人の自由の姿とは、「個々人が積極的にコミュニティやインフォーマルな組織に参加し、その活動を介して社会を耕していく」ものでした。こうした草の根レベルのコミュニティ参加は、しがらみや面倒、意見や利害の対立や調整を伴う営みですから、ニュータウンの自由を特徴づける「しがらみや摩擦を最小化しながら、自分の好きなことだけやって過ごす」とは全く異なります。旧来の日本の地域社会のような、強制的な共同体参加とも違っているのは言うまでもありません。
 

孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生

孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生

 
 ところが1960年代以降、伝統的なアメリカの自由が変質してきているというのです。アメリカの政治学者、ロバート・D・パットナムは『孤独なボウリング』のなかで、アメリカ人のコミュニティ参加は減少の一途を辿り、孤独になってきていると指摘しました。パットナムは膨大なデータを提示しながら、そうなっていった背景として1.電子メディア*2の普及、そして2.郊外化に着眼します。

 民族誌学者のM.P.バウムガードナーがニュージャージーの郊外コミュニティに住んでいたとき、彼女が見出したのは1950年代の古き郊外に起因する強迫的な連帯感よりも、細分化した孤立、自主規制、そして「道徳的最小主義」の文化だった。郊外の特徴というのは小さな街のつながりを求めるのではなく、内側に閉じこもり、近所に何も求めず、お返しも何も期待しないというものだった。「郊外とは、最新型の私事化(プライバタイゼーション)であり、その致死的な完成形ですらある」と、都市建築家のアンドレス・デュアニーとエリザベス・プラター−ザイバークは論じる。「そして、それは伝統的な市民生活の終焉をもたらす」、と。
 パットナム『孤独なボウリング』P254-255より抜粋

 
 アメリカは日本に先んじてモータリゼーションを完遂し、いち早く郊外化・ニュータウン化を成し遂げた国でもあります。『孤独なボウリング』中、郊外に触れたパートには、ハイウェイ、長距離通勤、巨大ショッピングモール、スプロール現象といったおなじみの言葉が並んでいますが、これらも世界に先駆けてアメリカで進行したものでした。 ここに書かれている郊外化の特徴は、日本のニュータウンにありがちな「しがらみのない自由」によく似ています。
 
 私事化が進行し、社会との接点が乏しくなっていけば、人間関係にまつわる摩擦や抑圧からは解放されます。そのかわり、しがらみにかわって孤独が、安心にかわって不安が、信頼にかわって猜疑心が首をもたげやすくなります。インフォーマルな社会的繋がりやコネクションの乏しい社会になった、ということでもあります。“ちょっと顔が利く”程度の人間関係でさえ、仕事の斡旋、友人の紹介、感情の共有といったメリットを生じ得るものですが、郊外のニュータウンでは、そうしたメリットも最小化され、控えめに言っても、デフォルトの恩恵として誰もが与れるようなものではなくなりました。
 
 昨今、こうした“顔の利く人間関係”や人脈は社会関係資本(ソーシャルキャピタル)と呼ばれ、注目を集めています。日本でも、醤油や味噌を近所同士で貸し借りするような付き合いが珍しくありませんでしたが、これも立派な社会関係資本ですし、東日本大震災の際にみられたように、そうした関係が有事に思わぬ力を発揮することもあります。しかしニュータウンでは、しがらみや摩擦が最小化される代償として、まさにそうした社会関係資本までもがが最小化されているのです。
 
 

「アメリカ人すべてが孤独になっているのか?」

 
 では、日本より一足早く郊外化が進行していった結果、アメリカ人は誰もが等しく社会関係資本を失い、寂しくなってしまったのでしょうか。そうではありません。政治学者のチャールズ・マレーは、現代のアメリカにも“顔の利く人間関係”を重視し、社会関係資本に富んだ生活をしている人間は残っている、と指摘しました。アメリカでは今、社会関係資本に恵まれた生活を維持している新上流階級と、社会関係資本がどんどん乏しくなっている新下流階級が生まれ、両者の世界は断絶しつつあるといいます。
 

階級「断絶」社会アメリカ: 新上流と新下流の出現

階級「断絶」社会アメリカ: 新上流と新下流の出現

 


 グラフ:4つのグラフはマレー『階級「断絶」社会アメリカ』からの抜粋。グラフのなかの薄い線(フィッシュタウン)は、新下流階級とみなされる階層、グラフのなかの濃い線(ベルモンド)は新上流階級とみなされる階層。コミュニティからの孤立度、信仰、子どもの家族環境、白人受刑者数、いずれの領域でも、新上流階級は“古きよきアメリカ”に準じた社会関係資本を維持している。一方、新下流階級はすべての指標で社会関係資本を急速に失い、世代再生産が困難な境遇に追い詰められつつある。

 
 幸せな結婚・婚外子出生率・犯罪率・コミュニティからの孤立度・宗教的な繋がりの有無etc……。“顔の利く人間関係”や、宗教的な繋がりというと、金持ちでインテリなアメリカ人ではなく、もっと普通の、あるいは貧しいアメリカ人が想像されるかもしれません。しかし実際に社会関係資本を保持し、“古き良きアメリカ”の生活を維持しているのは、経済資本や文化資本をも独占している新上流階級で、そうでない多くのアメリカ人は個人レベルの互助的関係やコネクションをどんどん失い、個人生活や世代再生産が破綻しつつあるというのです。
 
 マレーはリバタリアンの論客なので、こうした論拠の後に示されるビジョンには「自由人として自立した人間でなければ駄目だ」的な厳しさがあります。その当否はさておき、日本より一足早く郊外化が進み、しがらみのない暮らしが浸透してきたアメリカにおいて、「持てる立場」の人々がしがらみや手間暇を厭うことなく社会関係資本をキープし、互助的なネットワークを生かして暮らしている点は注目に値します。そして「持てない立場」にある人々、経済資本や文化資本の不足を“顔の利く人間関係”で補うニーズの高そうな人々こそが孤立化しているという指摘は、日本のニュータウンで今起こっていること、これから起こるであろうことを予感させるものがあります。
 

 【フィールドノートより】
 いちばん遠い席にいたボニーが、教区内の母親の家の隣に住んでいる下層白人の一家の話を聞かせてくれた。その隣の家の前では、明らかに栄養不良な子供たちが、大人に見守られることもなく、汚れたおむつをしたまま走り回っていたそうで、その光景は嘆かわしいものだったという。(略)ボニーはその話をしながら反感と不快感をあらわにした。地域の現状について、彼女がこれほど感情的に語るのは初めてのことだった。これまでにも白人住民の怠慢や退廃について話をしてくれていたが、いつもは落ち着いた話しぶりだった。だが今回ばかりは憤りを隠せなかった。それを見て、その場にいた誰もが黙り込んだ。
 チャールズ・マレー 著 橘明美 訳 『階級「断絶」社会アメリカ』 草思社、2013 P325-326より抜粋

 
 このフィールドノートで描かれるような風景は、2013年の日本では滅多に見かけないものでしょう。オートロックマンション、清潔なオフィス、アスレチックジムを行ったり来たりしているような生活をしている人においては、とりわけそうです。しかし、深夜のファミレスや福祉現場では、これの一歩手前、二歩手前の風景を見かけることがあります。もし、日本においても社会関係資本の格差は拡大しているとしたら――仮定法で書くのもバカバカしいifですが――、アメリカ同様、社会的に弱い立場にある人ほど孤立化の度合いを深めつつあるのでしょう。
 
 

持てる者がますます富み、持てない者がますます貧しくなる社会関係資本

 
 このように、一足先に郊外化が進んだアメリカでは、経済資本や文化資本だけでなく、社会関係資本までもが一握りのアッパークラスだけのものになりつつあります*3。各人の私事化(プライバタイゼーション)が進行し、コネやパワーを持った者同士が結びつくことがデフォルトとなった生活環境において、こうした格差が小さくなるとは思えません。インターネットがこうした格差を是正し、社会関係資本を平均化してくれると幻想したくなりますが、Facebook等が示しているように、インターネットがとりもつ人間関係とて、実利の絡むような縁は“顔の利く人間関係”をそう簡単には逸脱しません。よしんば逸脱するとしても、持てると持てる者がコネクションを持ちあうような形を取りやすく、結局、種々の資本格差を拡大再生産するだけでしょう。そもそもオンラインは、特定のコンテンツや関心事に大人数を集めるには適していても、人と人とをマッチングし、持続的に結びつける力はオフラインに遠く及びません。
 
 将来、日本でもアメリカと同じような格差が生じるでしょうか?
 
 日本とアメリカでは社会福祉を巡る政治やモノの考え方はかなり違っているので、全く同じにはならないでしょう。日本は、ついこの間までは地方の女子高生がグッチやプラダのバッグを持ち歩いていたほど豊かでしたし、アメリカに比べれば軽率な借金をする人が少ない国でもありますから、経済資本や文化資本の格差は、相対的にマシな状況が続くと思われます。
 
 だからといって、社会関係資本の格差が生じないわけではありません。ニュータウンは、コミュニケーションやコミュニティへの強制参加が無いかわりに、誰とコミュニケーションを取り、どのようなコネクションを形成するかが自己責任な生活環境でもあります。そしてニュータウンで育つ子どもは、学校という、コミュニティや父兄の影響力がほとんど及ばない空間で「誰に好かれるのか」「友達がつくれるか否か」「モテるか否か」を峻厳に問われながら成長していきます。ある者はそうしたコミュニケーションやコネクションを積み重ねながら成人し、社会関係資本の効果を実感しながら生きていくでしょう。またある者はコミュニケーションやコネクションに落胆しながら成人し、社会関係資本のデメリットだけに着眼しながら生きていくでしょう。いったん身についた社会関係資本に対する実感や価値観は、学校卒業後もそう簡単には変化しませんから、学生時代にかたちづくられた社会関係資本を巡る格差は、その後の人生も拡大し続け、人生のあらゆる場面についてまわると予測されます。
 
 奇しくも、冒頭で紹介した『地方にこもる若者たち』では、現代の若い世代、特にロードサイドの二十代において、コミュニケーション過小な層とハイパーコミュニカティブな層が勃興しつつある、としています。筆者の阿倍真大さんは、社会の多様性に追随できるハイパーコミュニカティブな層としてギャルを紹介し、その汎用性の高いコミュニケーションと対話能力を高く評価していますが、そうしたコミュニカティブな個人とは、経済資本や文化資本の如何に関わらず、ロードサイドの強者には違いありません*4
 
 アメリカ社会の郊外化とは、社会参加の貧困化、ひいては民主主義の草の根レベルの貧困化を意味するものでした。一方、日本社会の郊外化は「強制的なしがらみからの開放」=「自由の獲得」というニュアンスがありました。だからこそ戦後世代にとって、ニュータウンとは夢見るに値する生活環境だったのでしょう。しかし、この国道沿いにどこまでも広がる自由とは、“古きよきアメリカ”とは似ても似つかない自由であって、(阿倍さんの言う)ギャルのようなコミュニケーション強者とそうでない者によって社会関係資本が天と地ほどにも違ってくる無重力空間です。おそらくこの先、ニュータウンでは私事化がさらに進行し、一部のハイパーコミュニカティブな人達を除けば、孤立や孤独は深まっていくのでしょう。それで豊かになるのは誰で、それで貧しくなるのは誰なのかを考えた時、私は、戦後世代がこしらえた自由や夢とは一体何だったのか、今一度考え直さなければならないように思います。
 

*1:注:この文章はパットナム『孤独なボウリング』からの引用です

*2:主としてテレビ

*3:そんな事で社会が維持できるのか、という疑問が湧かなくもありませんが、アメリカ合衆国は世界じゅうから移民を惹きつけながら成立しているので、アッパークラス以外には世代再生産の困難な社会でも、移民によって持続していくのかもしれません

*4:ちょっと面白かったのは、この阿倍さんの著書の終わりのほうに、政治に対する世代別男女のスタンスが紹介されていて、ロスジェネ世代は有権者同士の話し合いを介した政治をあまり重視しておらず、もっとロスジェネ世代より若い女性は話し合いを重視している、というものでした。ところがロスジェネ世代より若い世代の男性のほうは、対照的に、有権者同士の話し合いよりも有能な指導者に任せてしまうことを望んでいるのです。政治に対するスタンスにおいても、若い世代においてはコミュニケーションに積極的な層と消極的な層に別れていて、強い男女差がある点を指摘したのは、興味をかき立てる統計結果だと思いました。