シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

しばらくネットを離れ、文章修行に明け暮れていて思ったこと

 
 ここ3ヶ月ほど、オフラインで文章作成する案件が立て込んで、インターネットが一日30分程度の毎日が続いた。くだらない揉め事、言及するほど損する議論、誰かを批判する時だけ七色の光を放つアカウント……そうした、非建設的なネット興行を全部脇に置いて、インプットとアウトプットに励む3ヶ月は、有意義ではあっても、脳内のドーパミン分泌量がちょっと足りない、そんな気がした。
 
 6月を迎え、久しぶりにインターネット繋ぎっぱなし状態にしてみると、ディスプレイにはインターネットの懲りない面々の姿がうつり、脳細胞が歓声をあげた。これだ!id:p_shirokumaの育ったふるさとの風!そしてはてなブックマークの阿鼻叫喚!嫁さんが別アカウントでブックマークした記事を流し読み、twitterのリストで過去ログを三日分ほど遡る。今日もインターネットは平和だった。なるほど。「こうした牧歌的光景が繰り広げられているのも、アベノミクスの恩恵かもしれない」とSNSに書き込めば、俺も、“良識あるSNS市民社会”の一員としての栄誉に浴するかもしれない、とちょっと思ったが、単純に人品を失うと思ってやめた。
 
 こうやってインターネットの春に浮かれ、2000字程度のしようもない書き込みに現を抜かしていると、思考が2000字に最適化されてしまうし、ハックルさんこと岩崎さんが仰っていたように、「はてなブックマーク」的なものに精神が最適化されてしまいそうなので、ネット上で奇声をあげるのはほどほどにしたほうがいいのかもしれない。「環境は人間を育てもするし、駄目にもする」ともいうし。第一、いつも世話になっているネットサービスのことを悪く言うのは、依存対象に依存しながら毒づく人々みたいなので、これまた人品を損ねそうだ。これ以上カルマを汚してなんになる。ブログスペースの無駄遣いは心の洗濯、良いことだけど、もうすこし真面目な話のふりをしよう。
 
 140字、2000字、1万字、そして10万字。それぞれの長さの文章には、それぞれの長さに最適な表現があり、それぞれの長さだからこそできること・生きてくることがあると思う。ブログと同じ感覚では、twitterの凝縮感、垂れ流し感は生じないし、逆に、10万字の原稿用紙にブログ記事を50個詰め込むだけは意味がない。その50個をピラミッド状に並べてみたり、ドーナツ状に並べて思わせぶりな中空をこしらえてみたりしないと、面白くない。どうせなら、前半にフラグを埋め込んで、後半で伏線回収するような仕掛けもあったほうが素敵だ。制御しなければならない関数は増えるし、難しくもなる。そのかわり、長文にしか出来ない表現ができるようになる。
 
 そういえば、どこかのブロガーが文章を建物か船に喩えていた気がする。「twitterはカヌー、ブログ記事は漁船、本一冊は商船」、といった感じで。小さなものほど手早く簡単に作れる。そのかわり、遠くの海には出られない。カヌーだけつくっていては漁船はつくれないし、漁船ばかりつくっていても商船はつくれない。商船ばかりつくっていては大型戦艦や原子力潜水艦はつくれないだろう。サイズが一回り大きくなるたび、精巧な部品を使うたび、求められるノウハウは高度になっていく……。
 
 けれども、インターネットの呼吸のリズムを止めて、長文ばかりつくっていては、脳味噌が詰まってしまいそうになる。ごく単純に負荷が大きすぎるのと、そうですね、ネット承認欲求の補給線を「全く」伴っていないのはいかにも難しい。ブログを心理学的欲求をダイレクトに満たすための手段として用いるのは、ばかげている。さりとて、全く欠いた状態で文章をずーーーっと欠き続けるのも、それはそれで潤いが無くてやりにくい、ということもわかった。「この人には読んでもらいたい」宛先に届かないという物足りなさ。それと、ネットならではの「もしかしたら誰かに突然届くかもしれない」不確定性の欠如。
 
 インターネットの闇に生まれ、インターネットを呼吸している身としては、こうやって未来の自分に対する手紙またはゴミを吐き出しておかないと、インプットとアウトプットの代謝系がおかしくなって、精神のビタミン欠乏症になってしまうように感じられるので、インターネットの吹き溜まり的なもの・はてな村限界集落的なものを補給して、鋭気を養っておきたいと思うのでございます。
 
 調整、おわり。