シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「いいね!」に慣らされて俺はバカになってしまいそうだ

 
 Facebookの「いいね!」やtwitterの「リツイート」「お気に入り*1」に慣れ親しんでいるうちに、自分の頭で考えるのを面倒くさがるようになった気がする。
 
 Facebook上でなにか面白い文章・考えさせられる文章を見かけた時、私は「いいね!」をクリックする。twitterでも「リツイート」や「お気に入り」もよく使う。それ自体は、インターネットではごくありふれたことだ。
 
 けれども、この「いいね!」がときどき自分の思考を妨げている、と感じることがある。いや、「いいね!」ボタンが思考を直接妨害しているわけではない。けれども時折、「「いいね!」を押しておけばいいや」というか、そこで考えるのをやめてしまうことがある。眼に留まった文章について、深く考えるのを端折ってしまう。
 
 twitterでも、「リツイート」「お気に入り」をクリックしただけで文章を咀嚼完了したような気分になって、考えるのをやめてしまう事がままある。まあ、疲れている日・モバイル端末でタイムラインを眺めている日には、そこで考えるのをやめてしまったほうが神経に優しいし、そこで立ち止まらざるを得ないことも多い。けれども「もうちょっと咀嚼しようかな、どうしようかな」と逡巡しているときに、易きに流れてしまうことが多いのも確かだ。
 
 たぶん私は「いいね!」「リツイート」「お気に入り」を、思考にピリオドを打つ句読点として無意識に使ってしまっている。あるいは、「まあ、いっか」と短絡するための都合の良い言い訳にしているか。
 
 そうやって考えてみると、自分の手許に文章を手繰り寄せるものだと思っていた「いいね!」ボタンが、むしろ自分の手許から記事を遠ざけるためのボタンのように見えてくる。もちろん、「いいね!」や「リツイート」を押してから、手ずからreplyを書き込む場合にはそうでもない。けれども、頻度から言えば、文章を読み終わった後の「いいね!」や「リツイート」は、思考の開始を司るより、思考のピリオドを司っていることのほうがずっと多い。少なくとも自分はそうだし、「いいね!」や「リツイート」の数とreplyや言及の数がほとんどイコールに近いネットユーザーは、あまりいないようにも思う。
 
 そして、「いいね!」や「お気に入り」は、文章に対する自分の感想を圧縮してしまう作用を伴っている。ほんとうは、肯定的な感想や考察も、ケースバイケースで様々な色彩を帯びているものだし、100%全肯定なんてことは稀だ。けれども「いいね!」「お気に入り」は、そういう色彩や清濁をデジタルな0か1かに変換してしまう。「いいね!」ボタンは「だいたいいいね!」も「すごくいいね!」も「義理いいね!」も全部一緒くたに「いいね!」にしてしまう。もしかしたら、記憶すら「いいね!」化しているかもしれない。「いいね!」を贈る側も、受け取る側も、ものすごく圧縮されたシグナルを授受している。これは、便利ではあっても豊かなことではない。
 
 「いいね!」周りについては、以前、情緒的やりとりが簡便になって良かったですね的な記事を書いたことがあった。情緒的やりとりが単純化・圧縮化されることには、メリットがないわけではない。しかし、情緒ばかりか自分自身の思考までもが極度に圧縮されてしまうとなると、これはかなり有害というか、つもり積もれば頭が怠慢になっていくのではないかと心配になる*2。もちろん、一日や二日、そういうネットライフをしているからといって、思考が圧縮化されたり怠惰になったりする心配はない。けれども、それが一ヶ月、一年、十年と積み重なったらどうなのか?そしてネットにアクセスする時間の多くが「いいね!」的圧縮の繰り返しによって塗りつぶされていったとして、個人の思考形態がその影響を受けずに済むものなのか?
 
 ここに書いた内容は、「いいね!」や「リツイート」を押した後に、ほとんど必ず文章を手打ちしている人には該当しない。世の中には、それらを思考の起爆点にしている人もそれなりいるだろう。けれども、ソファに寝そべりながらタブレットやスマートフォンでSNSをやっているような時、つい、ポチポチと「いいね!」や「リツイート」ボタンを押しながら、あくびをかみ殺して、そこで考えるのをやめてしまっている我が身をふり返って、俺って、この便利なインターフェースを使ってバカを練成しているんじゃないかと疑問を感じたので、この文章を書き残しておくことにした。
 

*1:favorite

*2:これがまだ、短歌や140字のtwitter文章程度の圧縮なら、テンプレートの字数内にいかに濃度の高い文章をこしらえるか、創意工夫と思考の余地がある。けれども「いいね!」ボタンの類にはそういう工夫の余地は存在しない。