シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

ショーウィンドー越しに「手の届かない自由」を眺める

 
 現代社会は個人の自由が尊重された社会、といわれている。実際その通りかもしれない。昭和時代に比べれば、私達はイエの事情や地域のしがらみに縛られることなく、自由に職を選択し、自由に住まいを選択できる。結婚相手も自由だし、そもそも結婚しない自由というものもある。そういえば、「恋愛するのが若者として当然」という、一時期の、あの鬱陶しいほどの空気も大分希薄になった。結構なことだと思う。
 
 こうした自由な社会のなかで、水を得た魚のように活躍している人達がいる。仕事を選び、住居を選び、パートナーや友人を選び、どこまでも伸びていく人達。あるいは困難なトライアルに挑みかかっていく人達。『ニートの歩き方』を書いたphaさんのように、ちょっと風変わりな生き方に自由を用いる人達もいる。これまた結構なことだと思う。
 
 では、こうした自由は、私の、あなたの手のうちにどの程度あるだろうか。
 
 “素晴らしき自由人達”から自分自身に視線を移してみれば、不自由さ加減というか、ままならなさを意識せざるを得ない人が多いのではないか。
 
 なかには、自分自身の自己選択の結果として、しがらみやイエの事情にコミットしていく人もいるだろう。そういう人の場合、自由選択した結果として・意図してそういう境遇で暮らしているのだから、本当の意味で自由がなかったわけではない。単にその人のモラトリアムが終わり、生き方が定まっただけ、とも言える。
 
 問題は、自分自身の自由選択の幅がもともと少なくて、否応なく、仕方なく、今の境遇を暮らさざるを得ない、という人だ。職業も、居住地も、友人も、自由選択どころの話じゃなく、既に与えられたもの・選ばざるを得なかったものにすっかり縛られてしまって、身動きが取れなくなってしまっている人だ。そのような人達にとって、現代社会の個人の自由と、その自由を最大限に活用して生き生きと暮らしている人達は、どのように映るのだろうか。
  
 ショーウィンドー越しに眺めることしかできない、「手の届かない自由」。
 
 身動きが取れない人達にとって、メディア越しに目に飛び込んで来る自由は、高級ブランド店のショーウィンドー越しに眺める高級腕時計や宝飾品のようなものではないか。そして、そうした自由を手にしている人達というのは、自由セレブとでも言うべき自由に恵まれた人達か、そうでなければ血尿の出るような無理をして自由を手にしている人達のようにうつるのではないか。なるほど、目にみえるところに自由は陳列されている。けれども、それを手に入れるのは簡単なことではなく、その自由を手に入れるだけのリソースを持った人間か、自由のために無理をするような人間だけだ、と多くの人は悟っているのではないか。そして、ショーウィンドーを一瞥して「でも、自分には無理だから」と足早に通り過ぎていく……。
 
 ここで、自由選択のために必要なリソース・自由人として生きるためのリソースについて点検してみる。
 
 ・金銭:手持ちの金銭が多ければ必ず自由とは限らないが、ある程度の金銭はあったほうが動きやすい。逆に、経済的な束縛が大きくなりすぎれば、自由選択の範囲は急速に狭まってしまい、身動きが取れなくなる。住まいを変えるにも、職を変えるにも、技能を身につけるにも、金銭は多少なりとも必要になる。
 
 ・時間:時間の無い人は不自由になる。どれだけ金銭に恵まれていても、自分自身の時間がないような人は、自由選択の範囲は急速に狭まって身動きがとれなくなる。技能習得や子育てをじっくりやるにしても、時間は必要だ。金銭と時間は、自由選択の基礎条件のようなもので、これらの両方を欠いている人は、ほとんど必ず不自由になる。
 
 ・知性、判断力:現代社会は判断力や知性の乏しい人間には生きづらい。愚か者を搾取しようとする欲望の食虫植物がそこらじゅうに花開いているし、インターネットにも落とし穴はたくさんある。まして、定型的な人生から大きくはみ出し、オリジナル度の高い人生を歩いていくとなれば尚更だ。嘘を嘘と見抜けない人には難しいし、危険と機会の識別が苦手な人間にも難しい。
 
 ・自分自身のメンタリティ:イエも地域も希薄化した現代社会で、一番強い束縛は何か?それは自分自身のメンタリティだ。例えば、id:Rootportさんのこのブログ記事には、「自分にしか出来ないこと」についての発想転換について、面白いことが書いてある。この記事の後半に書いてあることはちっとも間違っていない。しかし、ここに書いてある「自分にしか出来ないこと」をやるためには、「人と違うことをやること・人の顔色を窺いすぎないようにすること」のための最低限の自己評価と自発性が必要になる。「自分にしか出来ないこと」を模索し、なおかつ発見した後に実行にうつすためには、相応の好奇心や悪戯っ気が必要だ。もっと言えば、自分の道を歩んでも怖がらないだけの不安耐性が必要になる。これらは、ある程度は遺伝的な所与のものであり、またある程度は生育環境に由来するものでもある。どちらにせよ、自由を云々しはじめる頃の精神的リソースには大きな個人差があり、恵まれたスタート時点から思春期の冒険を始める人間と、大きなハンディを背負った状態から冒険を始める人間では、自由選択に甚大な差があると言わざるを得ない。
 
 こうした種々の事情を振り返るにつけても、自由選択が可能な社会になったとはいえ、個人が自由選択を行い得る範囲は全く不平等であり、ショーウィンドー越しに「手の届かない自由」を眺めるしかない人が大勢いるのが娑婆世界の実相であろう。自由な社会で自由に生きられる度合いには、明確な個人差がある。
 
 むしろ、社会によって個人の自由が束縛されなくなった今、個人の自由を束縛する最大のネックは、その人自身の内情や、その人自身の事情*1である、と言ってしまって構わないだろう。知性や判断力の限界、想像力の限界、器量の限界といったものが、ダイレクトにその人の自由を規定していく。モ(持)てる者はより自由に、そうでない者はより不自由に、生きざるを得ないというわけだ。しかし、親の職業や身分によって個人の自由の限界が規定されていた時代に比べれば、これでもずっとマシなのだろうし、個人のメンタリティや判断力には、思春期以降にも伸びしろがまだまだある。自由選択に関する運命は決まりきった・閉じきったものではない。
 
 今はショーウィンドー越しに「手の届かない自由」を眺めている人も、ある日ある時、その自由に手が届く日が来るかもしれない。自由選択の幅を広げるための方策や出会いは、あるかもしれないし無いかもしれない。だが少なくとも、決まり切っていると断言できるものでもあるまい。また一方で、全ての事柄から真に自由な人間というのも実際あり得ないわけで、人は皆、それぞれ定められた運命の内側で、無理の無い範囲で自由を求めつつ、所与の束縛や役割を引き受けながら生きているのだろう。ショーウィンドーに飾られた自由のすべてを手中におさめている人など実際には存在しない。それでも人間は、とにかく今を精一杯生きている。
 
 

*1:ここには家族背景や友人関係といったプライベートなリソースも含まれる