シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「健康で文化的な最低限度の生活」に必要なのは、カネやモノだけなのか

 
 中学校の公民の授業で、「健康で文化的な最低限度の生活」について習ったのを覚えている。生存権とか、あのへんの話だ。日本国憲法では「健康で文化的な最低限度の生活」が保障されていて、過去には裁判で争われたこともあった、という。
 
 現在も、生活保護やベーシックインカムに関する方面などで「健康で文化的な最低限度の生活」を維持するために何をどこまで支給すれば良いのか、議論が行われている。例えば携帯電話やスマートフォンが普及した現代において、それら無しの生活を「最低限度の生活」と言ってしまって構わないのか、等々。確かに、通信機器は石鹸やテレビと同じぐらい生活必需品になっているのかもしれない。
 
 ところで、「最低限度の生活」というやつは、携帯電話やスマートフォンといったモノさえあれば成立するものなのだろうか?つまり、「最低限度の生活」に必要なのは、カネやモノだけなのか。
 
 

「最低限度の生活」のための判断力

 
 そんなことはない。
 
 「最低限度の生活」を維持・成立させるためには、カネやモノだけでは足りない。全く足りない。カネやモノも必要だが、それをマネジメントし、リスクや危険から身を守るための判断力も必要になる。
 
 バブル景気の頃、「若者のカード破産」が話題になった。現代よりも金銭的に恵まれていたであろう当時の若者達のなかには、その潤沢なインカムをもってしてさえ経済生活を破綻させる者が混じっていて、人々の耳目を集めたのだと記憶している。バブルから遠く離れた現代も、パチンコ・パチスロ・ソーシャルゲームといったものに金銭をつぎ込んでしまう人は後を絶たない。
 
 そうでなくても、現代社会には、「無料」という触れ込みのもと、実質的には消費者から何らかの対価を取っているような“サービス業”や、無料ではあるけれども時間や情報やアテンションを吸いあげるような“サービス業”が、さながら熱帯雨林の食虫植物のように咲き誇っている。そういったものに時間や注意や情報を奪われるまま、生活水準を疎かにしていく人も珍しくない。
 
 では、このような生活マネジメントを行うための判断力を欠いている者はどうすれば良いのか?
 
 この国においては、判断力や認知機能が一定水準を下回っているとみなされた人には、後見人制度が導入されたり、介護福祉の職員によるケアマネジメントが導入されたりすることで、生活に必要な判断力を第三者が補えるような制度が整備されている。例えば精神発達遅滞の人・認知症の人・重度で難治性の精神病の人などに関しては、「最低限度の生活」を維持・成立させるための支援が行われる。これは、いいことだと思う。
 
 しかし、そういった障碍に該当しない人でも、カネやモノで身を持ち崩す人が後を絶たないわけで、そういった人達に関しては「最低限度の生活」を維持するための判断力を補ってくれる者は(少なくともパブリックには)存在しない。人間の認知機能や判断力は、ここ数百年でそれほど変わっていないが、社会は急激に複雑化し、サービスやコンテンツのなかには、心理学的なセキュリティホールを巧みに突いてカネをむしりとっていくものが多く現れている。どこのどのサービスが「心理学的なセキュリティホールを突いてカネをむしりとっていく現代のブラックホール」なのかはここでは触れないが、ともかくも、そういった“現代のブラックホール”を避けるためには、おそらく一定水準以上の判断力が必要とされる筈で、精神障碍者や知的障碍者には該当しないけれども現代のブラックホールを回避しきれないぐらいの人達にとって、『闇金ウシジマくん』に描かれるような救いの無さは、決して遠い世界のものではない。
 
 おそらくこれからも、サービスやコンテンツは進化し続け、ますます人の心のセキュリティホールを突くのが巧くなっていくだろう。そうなってくると、より優れた判断力を持った人間でなければ生活のマネジメントが難しくなり、カネやモノで身を持ち崩す人はさらに増えてくるかもしれない。また、社会の仕組みや取り扱う機器が複雑化していることを思うにつけても、“"精神障碍者や知的障碍者には該当しないけれども現代のブラックホールを回避しきれないぐらいの人達”に該当する人のマスボリュームは今後増大すると推測され、そういった人達の判断力の問題をどうサポートするのか、どこかで問われることになるだろう。
 

「最低限度の文化的な生活」のための情緒

 
 それと、「健康で文化的な最低限度の生活」を維持するためには、情緒や気分の安定性が必要不可欠でもある。
 
 情緒不安定で衝動コントロールの悪い人は、モノやカネのマネジメントに優れないだけでなく、対人関係全般に深刻な問題が生じやすい。極端なことを言えば、さっきまでバラエティ番組を見てけたたましく笑っていたかと思いきや、隣人の僅かな物音で活火山の如く怒り狂い、数時間は物事が手に付かなくなるような人は、人並みにカネやモノがあったとしても、生活していくのは難しいだろうし、人並以上にカネやモノを必要ともするだろう。もちろん、ここまで極端な人というのは稀に違いない。しかし、どこまで他山の石とできるのか?
 
 ここで、我が身を振り返ってみよう。現代人の情緒や気分は、場面ごとの役割や、インターネットのコミュニティごとに、笑ったり、怒ったり、不快になったり、有頂天になったり、一日のなかでも目まぐるしく変化していく。いや、変化していくというのはたぶん間違いで、場面やコミュニティやコミュニケーションが切り替わるたびに、変化を強いられている。Aという場面ではAの場面に相応しく、Bという相手に対してはBという相手に相応しく、といった具合にだ。もちろん、そうした情緒のスイッチ切り替えによって救われている部分もあるかもしれない。
 
 けれども、こうした情緒のスイッチ切り替えが、すべての人に出来るわけではないし、すべての人に易しいわけでもない。世間では、「気分転換」は好ましいフレーズとして流通しているようだが、それは緩やかで好ましい「気分転換」の場合であって、急激で、頻度の高い気分転換の連続は、人の情動に大きな負荷を与える。その負荷は、広く薄くメンタルヘルスを侵すと同時に、ときには情緒や衝動のコントロールをミスらせて、逸脱行動に繋がるものかもしれない――例えばある場面で有頂天になっていた人が、その有頂天な気分を切り替えきらないまま、インターネットによからぬ事を書いて大炎上を起こしてしまうように。
 
 つまり、現代社会を生きていくためには、いわゆる理性や判断力の領域だけでなく、情緒や気分といったエモーショナルな領域でも、かなりのポテンシャルを必要とされる、ということだ。それが出来ない人は、「健康で文化的な最低限度の生活」を維持することが困難になるだろう。もちろん、その最低限度の生活に必要とされがちな、人間関係の面でも大きな不利を蒙っていくことになる。
 
 

「最低限度の生活」のための理性や情緒を、誰が、どう、補うのか

 
 「健康で文化的な最低限度の生活」を巡る議論、つまり生存権を巡る議論は、これまで、モノやカネを中心として行われてきた。あるいは、明白な障碍を持った一部の人達へのサポートをどうするか、という視点で行われてきた。それはそれで大切なことだったと思うし、これからも大切だろう。
 
 しかし今、現代人としての生活を維持していくためには、モノやカネだけでは全く足りない。判断力の領域や情緒な領域でも、エッセンシャルとされる水準はかなり高く、その水準にみたない人は、いつ『闇金ウシジマくん』の世界に転がり落ちるかわかったものではない。あるいはメンタルヘルスの窮地に立たされるリスクが高くなってしまう。
 
 さりとて、明白な障碍を持っている一部の人達を除けば、こうした、判断力の領域やエモーショナルな領域の欠乏を補うようなシステムは存在しておらず、「自己責任」の名のもとに、生活を転覆させていく人は後を絶たない。このあたりは、自己決定権の問題ともリンクしているため、むやみに「保護という名のもとの行動制限」をすべきでは無いだろうけれども、もう少し、なんとかならないものなのか、と思うことはある。
 
 カネやモノがあったとしても、それに判断力や情緒が伴っているのでなければ、現代人が現代人として生きていくのは難しい。今、この瞬間にも、どこかの誰かが、判断力や情緒のセキュリティホールを突かれて“現代のブラックホール”へと吸い込まれているのだろう。
 
 [参考]:http://www.kajisoku.org/archives/51810897.html