国語力というより、日本語能力と言うべきかもしれないけれど。
動画サイトやUstreamのようなものがあるとはいえ、現在インターネットで情報収集やコミュニケーションをしようと思ったら、そのとき主な媒体となるのは「テキスト」、つまり文字情報だ。動画や静画を見ている時も、それに補足文章がついてくるような場合は、やはり文字情報に目を通すことになる。twitterのやりとりにしても、コンパクトに圧縮された文章を読む/書くどちらの場合も、国語力次第でできること/できないことがあり、なかなかに奥が深い。自分が誤読するリスクを避けるためにも、誰かに誤読されるリスクを減らすためにも、国語力はモノを言うだろう。
だから現段階のネットコミュニケーションは、ユーザーの国語力の大小によって、同じ時間をかけていてもインプット/アウトプットの差に大きな差が出やすい状況にある、と考えられる。
ネットコミュニケーションでは、国語力がコミュ力の根幹をなしている
なかには、「おはよう」「おやすみ」「愛してる」ぐらいしか読まない・書かないインターネットライフもあるかもしれない。というか、ある。そういう人達にとって、ネットコミュニケーションでは国語力がボトルネックに……というのは当てはまらないだろう。
しかし、twitterにしろblogにしろ、巷には難しい話や長い文章がゴロゴロ転がっている。あちらに修辞技巧の限りを尽くしたような140字があったかと思えば、こちらには難しい問題を丁寧に取り扱っているblog*1があったりする。ロールシャッハテストのごとく、見る人の立場や願望によって見え方がガラリと変わってくるような、そういう仕掛けを施した文章を得意とする書き手も多い。
そうした、多種多様にして難解だったり罠だらけだったりする文章をネットの情報源にするなら、当然、国語力が重要になるわけで。
・指示語が何を指しているのか
・修飾語がどこに付くのか
といったベーシックな国語力はもちろん、
・文意や論旨を読み取り、枝葉末節と区別する
・比喩や皮肉の言わんとしているニュアンス
・ロジックの読み取り
・何通りの解釈が可能な文章で、そのうちまず自分の目に飛び込んできたのはどれか
といったものを読み取れる能力の大小によって、同じ文章を一時間読んでいても、インプットされるものには雲泥の差が生じることになる。そして国語力があまりにもお粗末過ぎると、文意を読み違えて解釈したり、ロールシャッハテストのような罠文章に釣られて書き手の狙った通りの反応をしてしまったりするリスクが増大する*2。
だから、インターネットをなにかしら情報源とし、ネットコミュニケーションを重視するようなライフスタイルを採っている人にとって、国語力は、情報収集力やコミュニケーション技能の根幹をなすものだと思う。ましてインターネット上でアウトプットをするとなれば、twitterのような短い文章でさえ国語力が求められることになる。短い文章なら短い文章なりに、長文なら長文なりに、意志や意図を的確に文章に反映させられるか否かが鍵となる。
あまり良い喩えではないかもしれないが、国語力を疎かにしたままのネットコミュニケーションなんてものは、精度の低い部品で自動車を組み立てるようなものだと思う――精度が低ければ、故障や誤動作、欠陥の見落としは増えてしまう。精度を上げようと思ったら、国語力をなんらかの形で向上させ、誤読を減らし、狙い通りの文章が書けるようにならなければならない。
これが、face to face のコミュニケーションだったら、情報の授受をテキストだけに依存していないぶん、だいぶマシである。相手の表情・視線・声音から補足情報を引き出せる*3ので、コミュニケーションの可否は国語力だけでは決まらない。むしろ、テキスト以外の情報のほうが情報量として多いぐらいだから、国語が苦手だった人でもコミュニケーションの致命傷にはなり得ない。
しかしネットコミュニケーションでは、目下のところテキストが殆ど全てと言って良い状態が続いているわけで、問われるのは専ら国語力だ。国語力の高低によって、ネットコミュニケーションの精度・彩り・消化度は大きく左右される。現在のインターネットコミュニケーションにおいては、国語力は、最も重要なコミュニケーションの技能のひとつに数えられ、もし可能なら鍛錬しておいたほうがいい。
[関連]:トレーニングの重要性 - REVの日記 @はてな