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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

なぜ非モテ論議が衰退していったのか――非モテ同人誌『奇刊クリルタイ』を振り返りながら

 
 
 ※警告!:このタイトルを見て興味が沸かない人には、今日の記事は全くおすすめできません。
 
 なぜ、はてなから「非モテ」の話題が消えたのか - Attribute=51
 何も終わっちゃいねえ!何も!言葉だけじゃ終わらねえんだよ! - あままこのブログ
 非モテ論壇より一言。 - 古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」
 実存は「友達作りのネタ」なんかではない - あままこのブログ
 
 久しぶりに、「非モテ」についての昔話を読んだ。湿った火薬庫にマッチを投げ込んだようなコミュニケーションが行われていて、懐かしく思った。そういえば先日、『月刊宝島』向けと称する非モテ関連のインタビューを受けた。「脱オタサイト」という立場から見た、当時の非モテ論議とその衰退について覚えていることを答えておいた。もし、記事として採用されているなら、いずれ発売されるかもしれない。
 
 それはさておき、リンク先を読んでいて非モテについて思い出したことを書いておこうと思う。
 
 
 
 【「非モテは終わった」vsは「非モテは終わっちゃいないよ」議論。】
 
 リンク先でid:guri_2さんが書いているように、ムーブメント・流行としての非モテは終わって久しい。流行り言葉としての非モテは、2005〜2007年あたりまでが賞味期限ではないだろうか。その後は「リア充氏ね」「メシウマ」が優勢な時代がやって来て、最近はこれらの単語も旬を過ぎた気配があると思う。つまり流行語としての「非モテ」はとっくに終わっている。
 
 これに対し、「持てない者」としての非モテはまだ終わってはいない。
 
 非モテという単語を見ると、【異性に相手にされないことを苦悩している=非モテ】思うかもしれない。しかし当時、自称非モテのなかに彼女や配偶者を持ちながら非モテを自称する人がいたように、実際には異性に相手にされるか否かは大きな問題ではなく、セックスすれば非モテ感覚がなくなるわけではなかった。自称非モテの人の悩みのなかには、「いっぱしの人間として社会で扱われている感覚の欠如」や「あるべき自分と現実とのギャップ」のような、なにやら心理学的な概念に親和性のありそうな、そういったニュアンスが多分に含まれていたと思う。id:amamakoさんはリンク先で「何も終わっちゃいねぇ」と書いているが、実際、非モテ論者が抱えていた苦悩と同様の苦悩を抱えている人は、今もたくさんいると思う。ただし、twitterやニコニコ動画といったネットインフラによって、そうした苦悩や葛藤の類はガス抜きされているし、「自称非モテ」という振る舞いは今ではみっともないものでしかない。だから2005〜2007年当時のような、がっつり非モテ論をやりたい機運はもう巡って来ないと思う。よしんば巡ってくるとしても、その際には「非モテ」というフレーズは使われない。
 
 
 【『奇刊クリルタイ』という同人誌について】
 

奇刊クリルタイ6.0

奇刊クリルタイ6.0

  • 作者: クリルタイ,能町みね子,雨宮まみ,手塚真輝,古田ラジオ,ふじいりょう,奇刊クリルタイ編集委員会,吉川にちの
  • 出版社/メーカー: クリルタイ
  • 発売日: 2011/11/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • 購入: 3人 クリック: 17回
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 id:republic1963さんが主催している『奇刊クリルタイ』は、懐の広い同人誌だった。ガチガチの非モテ論者からカジュアルな非モテ論者、さらに(私のような)非モテ論者に懐疑的な人間まで、幅広く声をかけ、様々な意見を誌面に反映させていたと思う。悪く言えば散らかっている&節操が無い同人誌だったが、そのおかげで、例えばクリルタイ2.0を再読すると、かなり幅広い考え方の人が非モテについての見解を寄せているのが見てとれる。これは財産であり、republic1963さんのスタンスが良い形になったものだと思う。
 
 しかし、こういうスタンスのために、『奇刊クリルタイ』という同人誌は、昔も今も、まとまりを欠いているという欠点を抱え続けている。そして『奇刊クリルタイ』の歴史は内部分裂の歴史でもあった。同人誌としての体裁を維持するためには多種多様な論者の主張に対して寛容でなければならず、それなりに寛容なrepublic1963さんの編集方針をもってしてすら、内部分裂や脱退は日常茶飯事だった。そのような『奇刊クリルタイ』の歴史を振り返るなら、「非モテは個人的なもの・個人の数だけ非モテの数がある」という記述がひねり出されるも分からなくもない。そうとでも言わなければ同人誌として維持できなかっただろうし、多種多様な各人の主張を掲載していくことにこそ、同同人誌の値打ちなり特色なりがあったのだろうから。
 
 クリルタイ4.0の頃は、私もrepublic1963さんの編集方針にかなり不満だったし、だから一時期は関わらないように意識していた時期もあった。けれども今になって思い返せば、その懐の深さ・散らかり具合のお陰でかえって掬い取れていた部分もあったのではないかと思うし、republic1963さんの苦労たるや、相当のものだっただろうと思う。
 
 
 【非モテ語りの衰退要因として、非モテ論者の功罪を考える】
 
 非モテ語りが衰退した理由の一端については、私もこちらで一度書いたことがあるし、そっちがメインだと思っている。非モテという単語にアイデンティティを仮託しながら自分語りするよりも、「リア充氏ね」「メシウマ!」のほうがずっと気楽なのだし。
 
 ただし、非モテ語りが衰退していくにあたって、当時の非モテ論壇な人達が為した功罪の罪の部分についても無関係とは思えないので、ここで触れておこうかなと思う。
 
 はてな非モテは話題のネタだったが、それこそ最も価値あることだった
 
 上記に、非モテ語りに熱心にコミットしていた人物の正直な思い出話がある。曰く、はてな非モテは話題のネタだった。しかしそのネタに集まってキャッキャウフフできたことにこそ意義があったのだ、と。そしてキャッキャウフフによって当事者の精神衛生に貢献するものがあったなら、それで有意義だったじゃないか、というのだ。なるほど当事者が心理的に満足しているだけでも、さしあたり有意義といえなくもない。
 
 しかし、この思い出話を逆向きに眺めるなら、当事者が非モテというキーワードを囲んでキャンプファイヤーしながらキャッキャウフフする以上の意義は無かった、ということでもある。非モテ“論壇”というのもおこがましい話で、非モテの個々の将来を考えたり非モテが流行った社会的意義について考察したりするのは二の次、三の次だった、ということなのだろう。少なくともたいした問題ではないと感じていた参加者が結構いたのは間違いない。
 
 実際、私自身も、非モテ論者が集まるオフ会で何度か「それであなた達は、非モテの5年後10年後についてどのように考えているのか」と参加者に問うてみたことがある。少なくとも私自身は、『汎用適応技術研究』をやりながら、5年後10年後の社会適応について常に考え続けていた*1から、非モテ“論壇”と呼ばれる人達――社会や時代といったマクロな視点で非モテについて饒舌に語ってみせる人達――も当然そういうことを考えていると期待していたわけだ。ところが誰からもマトモな答えは返ってこなかった。だから私は、非モテというキーワードに集まっている人達は、キャッキャウフフなレクリエーションがしたかっただけなんだと推定したし、上記リンク先の回想を見る限り、あながち間違っていなかったようだ。
 
 こうした当事者のキャッキャウフフは、当事者自身の楽しみという面から見れば成功だったのだろう。しかし、これから現れてくるであろう年下の非モテに何か参考になるものを残すだとか、非モテという単語を軸として議論を後世に残すだとか、そういった意味では失敗だったと私は思う。そのうえ、当時の非モテ-レクリエーション参加者の少なからぬメンバーが内ゲバ的な分裂をみせ、あの『革命的非モテ同盟』もみっともないスキャンダルを繰り返しながら存在感を失っていったことも相まって、結局、非モテブームの後に非モテについての系統だった論議を続ける下地は残らなかった。いや、個々人のなかではなにかしら残ったのかもしれないが、非モテという単語を軸として持続的なワークショップを行うような何かは、『奇刊クリルタイ』も含めて、残らなかったと思う*2
 
 その瞬間のキャッキャウフフに重きを置いていただけで、非モテの灯火を守ること・議論を深めていくことに尽力しなかった以上*3、流行という名のキャンプファイヤーが終わった後には何も残らない。このあたりは、非モテという言葉を娯楽としてしゃぶり尽くした人達の罪の部分だと思うし、非モテというキーワード周りが寂しくなっていくにあたって、要因のひとつとして数え上げても良いものだと思う。
 
 彼らは、思い思いに非モテという言葉を消費していたが、非モテという言葉をまとまった議題として後世に遺すための努力をしなかった。または、できなかった。後発世代のid:amamakoさんが、『奇刊クリルタイ』をはじめとする当時の非モテ論者にいらだちを感じる一端には、こういう部分もあるんじゃないかと私は推測する。正直に打ち明けるなら、私も少しだけイライラを感じるところではある。イライラするということは、期待していたということなのだけれど。
 
 ちなみに、“ああ非モテね。うだつのあがらないおっさんのキャッキャウフフのネタじゃん”的な認識は、2chの流速の早いスレッドなどでも結構見かけていたので、当事者の心胆はだいたいバレていたんじゃないかな、と思う。
 
 
 【むすびにかえて】
 
 非モテに相当するような苦悩なりメンタリティなりは終わったわけでもなく、そういった心境を抱えている人は今でもあちこちにいる。しかし、非モテという単語を駆使して議論を行うのはもはや難しいし、そうなってしまった理由の一端には、非モテが流行っていた頃の参加当事者の振る舞いによる部分も少なからずあるんじゃないかとは思う。ただまあ、そのあたりも含めて、色々と致し方のない運命だったのかもしれない。
 
 ちなみに、私が『奇刊クリルタイ』の主催・republic1963さんについて一番印象に残っている記憶は、過激な自己主張をしたがる急進的な非モテ論者をなだめたり仲裁したりしながら、なんとか同人誌としてのまとまりを保とうと努力している姿だった。彼は、多くの非モテ論者からネガティブな言葉を投げつけられても辛抱強く我慢しながら、非モテ同人誌としてのまとまりを維持しようと努めていた。その後ろ姿を知っているから、私は「『奇刊クリルタイ』は非モテについての議論の場を放擲した」などとは断罪できない。また、「非モテは個人的なもの・個人の数だけ非モテの数がある」という一見いい加減そうにみえるフレーズについても、彼が急進的な非モテ論者に関わり続けながらどうにか同人誌を作り上げてきたことを踏まえるなら、決して軽い一言ではないと思う。実際彼は、「僕が一番非モテのことをよく知っているんだ」的な非モテ論者達に囲まれ、散々しんどい思いをしながらも奮闘してきたのだから。
 
 こうした諸事に不満を感じる人もいるだろうし、私も全く不満が無いわけでもない。しかし彼が最善を尽くすべく頑張っていたのは覚えているし、同じことが自分に出来るかと言ったら全く自信が無い。だから私はrepublic1963さんと『奇刊クリルタイ』に到底文句が言えない。彼は、よくやっていたと思う。
 

*1:今も考え続けている

*2:そしてクリルタイは現在、持ち前の懐の深さと曖昧さを維持しながら、非モテとは少し軸のずれたところを漂っているように見える。

*3:いや、少なくとも『奇刊クリルタイ』の場合は「尽力したくてもとても出来る状態ではなかった」といったほうが適当か