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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

なぜネットは「けしからん」「矛盾した」年配者の巣窟にみえるのか

コミュニケーション

 
 インターネットを眺めていると、異なる世代が発信する色んな意見を目にする。そのなかには「けしからん」といいたくなるようなものも珍しくない。しかも、同じ世代が矛盾したことを言っているように見える場合がある。
 
 例えば、いつだったか『NHK特報首都圏』が若者のインスタントセックスについて放送していたとき、twitter上では、若者の性の乱れを心配する年配者のツイートを見かけた。と同時に「年配者は、若者の草食化や性離れを危惧していたんじゃないのか」という若い人の非難めいた反論も見かけた。きっとこの若い人は、ほかの年配者が非婚化・非恋愛化を嘆いているのを見かけていたから、反対っぽいことを言っている年配者を目にして「お前らは矛盾してるぞ」と憤ったのだろう。
 
 この件に限らず、ネットを巡回していると、自分自身の価値観と照らし合わせて「けしからん」といいたくなる文章を見かけるだけでなく、同じ世代から発信される相矛盾した・正反対の意見が同時観測されて、それが一段と「けしからん」ように感じられたりする。
 
 

「けしからん」が可視化されすぎてしまうインターネット

 
 ということは、インターネットは「けしからん」奴等の巣窟で、「相矛盾した意見」を発信する若者と老人ばかり...と結論づけたくなるが、それは間違っている。
 
 たぶん、インターネットが「けしからん」意見の持ち主を増やしているわけではない。しかし、コミュニケーションメディア――とりわけネットメディア――を通して他人の意見を収集するようになると、「けしからん」が可視化されすぎる、という部分はあるかもしれない。
 
 長い間、人間は「face to face で話をする」というかたちで他人とコミュニケートしてきた。これは、非言語情報を豊富に含んでいるという意味では豊かな情報収集だったが、その場に居合わせた人の情報しか手に入らないという意味では情報量が少なく、ときに冗長でもあった。このため、いっときに観測できる「けしからん」の数は自ずと限定され、相矛盾する「けしからん」を同時観測するような事態も起こりにくかった。交際範囲の狭い人であれば、「けしからん」と思うような意見に出会う頻度自体が少なかった。
 
 また、「けしからん」ことを言っている相手は、若者とか年配者とかいった漠然としたまとまりの一部としてではなく、○○さんとか××君といった、個別の人格として記憶されてもいた。年配者の○○さんと△△さんが違うことを言っていても、「年配者が矛盾したことを言ってやがる」と認識されることはなく、「同じ年代でも、○○さんはろくでもないが、△△さんは道理が分かる人だな」と個別に認識できた。
 
 しかも、こうしたface to faceのコミュニケーションは、相手のリアクションを直に見ながら軌道修正しつつ会話が進むぶん、相手が「けしからん」と思いそうな話題を遠慮しながら(あるいはオブラートに包みながら)話される傾向が強かった。空気の読みあい・読ませあいを優先しがちだった時代には、この傾向はとりわけ顕著だったと言える。
 
 ところがメディア経由のコミュニケーションの場合は、そうもいかない。
 
 インターネットには常時たくさんのメンションが飛びかっていて、その発言のなかには相矛盾したものも大量に混じっている。メディア、特に文字メディアを媒介物としたコミュニケーションは相手の目線や顔色を確認しながら語調をチューニングするわけではなく、しかも、誇大な表現のほうが衆目を集めやすい。このため、目に飛び込んでくるメンションは「けしからん」語調やレトリックで彩られている確率が高くなりやすい。しかも無尽蔵に発言者がいるのだから、たくさんメディアを眺めているほど・観測範囲が広いほど「けしからん」メンションに遭遇する頻度も増えてしまう。「犬も歩けば棒に当たる」というが、インターネットではまさに「犬も歩けば「けしからん」に当たる」だ。
 
 そのインターネットにしても、匿名掲示板の単一スレッドや個人のウェブサイトをダイヤルアップ回線で眺めている程度だったら、単位時間あたりに視界に入ってくる情報量が少なめなので、「けしからん」意見を目にする機会はまだしも少なかったかもしれない*1。しかし高速インターネット回線が普及し、単位時間あたりの情報摂取量が激増すると、「けしからん」意見なり、「けしからん」発言者なりに遭遇する確率が高くなった。
 
 だから、インターネット上で「けしからん」意見や「けしからん」発言者が増えたように見えるのは、ネットメディア越しに他人を見るせいで生じる錯覚のようなものなんだと思う。いや、錯覚というよりも、Face to Face の比較的少人数のコミュニケーションに適応していた筈の人間に、ネットメディアは過剰で飽和的な「けしからん」意見を見せ過ぎてしまうのだろう、と私は思う。
 
 Face to Face ぐらいの遭遇程度でしか「けしからん」に遭遇しないことを前提にチューンされた人間に、想定以上の「けしからん」を見せすぎてしまうような情報環境が、コミュニケーションメディアの発展によって立ち上がってきた、ということかもしれない。人間の心理的発達には、自分とは異なる意見を持った他者を認識する機会も必要かもしれないけれども、その、自分とは異なった意見に暴露される量が、SNSを介した情報摂取では飽和状態になりやすく、結果として「けしからん」体感度の高まりに繋がっているのではないだろうか*2
 
 

若者/年配者の発言が矛盾してみえるメカニズム

 
 そして、メディア越しに不特定多数の若者/年配者の発言を読み拾っていると、ついつい、ひとつのまとまった集団の発言として受け取ってしまいやすい。
 
 数百人の年配者が、実際にはそれぞれ個別な若者論をツイートしていても、個々人をアイデンティファイしない読者から見れば、それらは「年配者集団の意見」としてひとつに括られて評価されることになる。顔やアカウントの分かる「○○さんの意見」ではなく、顔もアカウントも不明な「年配者集団の意見」になってしまうわけだ。そしてその一括りにされた意見のなかでも特に「けしからん」ものばかりがピックアップされ、「けしからんお年寄り達の総意」のように記憶される。
 
 「年配者の若者論は矛盾している」「年配者はダブルスタンダード」と言ってしまう感覚などは、まさにこのことを裏付けるものだ。様々な若者論を語っている年配者が一括りにされ、あまつさえ一人格として取り扱われているからこそ、異なった年配者の意見をかき集めたコラージュに向かって「矛盾」「ダブルスタンダード」などと叫んでしてしまうわけだ。顔の見えない大量のメンションを浴び続けるネットメディアに浸かっていると起こりがちな、一種の錯覚である。「木を見て森を見ず」という諺があるが、この場合は「森を見て木を見ず」といったところだろうか。
 
 このような錯覚は、「顔の見えない不特定多数のメンションを浴びる」ようなメディアではよく起こることらしく、「医者のダブルスタンダード」「科学者のダブルスタンダード」「男のダブルスタンダード」「女のダブルスタンダード」といった不満げな発言をよく見かける。そのような発言をしている人達は、発言者の一人ひとりをアイデンティファイすることなく、不特定多数のメンションをかき集めたコラージュを「日本の若者」「日本の老人」といった仮想人格として取り扱っているのだろう。
 
 しかし、不特定多数のメンションが飛び交うネットメディアを使いこなすにあたって、そんな十把一絡な情報収集とコミュニケーションで構わないだろうか?異なる世代・異なる立場の人のことを理解するより、むしろまとめて仮想敵にしたい人にとっては、構わないのかもしれない。しかし、異なる世代・異なる立場の人のなかにも色々な人がいることを前提に耳を傾けてみたい人にとって、この手の錯覚は邪魔になる。錯覚に身を任せることなく、一人ひとりの意見の違いを意識していく必要がある。

*1:その代わり、一度「粘着」が現れると延々と視界に入り続けるという別種の問題点もあったが

*2:コミュニケーションの相手をコントロールできるSNSでさえそうなのだから、一切のコントロールを排したネットコミュニケーションをやろうとする人は、人間離れした精神力が求められそうである