シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

足枷になっているのは“バカ親”なのか?“階層”なのか?

 
 http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20120528/1338173209
 
 リンク先は、とても難しい問題に触れている文章だった。
 
 学問や読書に無頓着な親のもとで育ったために、伸びしろのありそうな子どもの思考範囲が狭く限界づけられてしまっている、というケースは結構あると思う。私も、それに近いような人を、福祉分野で見たことがある。ああ、この人がしかるべき教育を受けて、あわよくば医師になっていたらさぞかし切れ者になっていただろうな、と思うような。
 
 例えば看護助手をやっている人のなかに、非常に要領の良い、段取りも記憶力も優れた人が混じっていることがある。しかし、そういう人も体系だった知識や学問のインストールを欠いているし、週刊誌やTVを批判的に眺める力も無い。パソコンに例えるなら『素晴らしいCPUとグラフィックボードと潤沢なメモリを積んでいる。けれどもHDDにはマインスイーパとソリティアとケータイ小説しかインストールされていない』といった風で、本人も、それ以上何かをインストールしたがっているわけではないようだった。また、たまたまメンタルヘルスを損ねて受診に至った患者さんのなかにも、かなりの潜在的スペックを持ちながらも、おそらく学習機会に恵まれなかったがために、肉体的な非正規雇用に流れていったように見える人を時々見かけることがあった。
 
 その一方で、私はこんなタイプの人を見かけたこともある;親から「勉強が大事」「一流大学に行くべき」と言われて勉強ばかりして、灰色の思春期を過ごしてきた挙句、さほど学業成績も伸びなかった自分自身に葛藤しているような人だ。このタイプの場合、親は学問の重要性をそれなりに認識しているし、むしろ逆に「走れ、上昇志向だ。勉強すれば栄達できるぞ!」とせきたててやまないぐらいだ。しかし、それでも伸び悩む人は伸び悩むし、人の倍以上ほど勉強をしながら平均以下の大学にしか入学できずに落胆する人もいる。そして最終的に大学中退の憂き目に遭ったり、散漫な就職活動の果てにニートに甘んじるようなケースに、私は臨床場面で遭遇することがあった*1。親が学問や書籍の重要性を意識していても、全ての子どもが報われるとは限らない。
 
 なら、「親が学問や書籍を軽視していない。けれども上手くいかない」子どもは、一体どこに問題があるんだろうか?
 
 ひとつには、その子ども自身の先天的な(あるいは生後きわめて早期のトラブル等による)能力の限界、というものがあるだろう。不幸なことだけど、世の中には、先天的・遺伝的なハンディを抱えた状態で生まれてくる子どもや、周産期も含めた発達初期の段階でなんらかのトラブルがあって発達が遅れやすくなってしまった子どもがいたりもする*2。そのような子ども達は、さっきのパソコンの喩えで言うなら『CPUやマザーボードの性能になんらかのハンディを背負った状態で生まれてくる』わけだから、インストールできるソフトウェアに限界があったり、インストールしたソフトウェアの運用に限界があったりすることがある。こうしたケースの場合は、幼児期〜思春期の学習環境だけでは説明がつけられない。
 
 あるいは、先天的/後天的を問わず、なんらかのパーソナリティの偏りが生じて、それが学問の妨げになっているケースや、親子関係のこじれが思春期になって大爆発して、“グレる”状態になっているケースもある。思春期までは親の言いなりに「良い子」をやっていたけれども、思春期に至って遂にその反動が爆発して、学問への道から大きく逸脱しまうタイプだ。ある者はパーソナリティ障害に該当するような状態となって心療内科を受診するが、ある者はヤンキー的なライフスタイルを採用することで親への抵抗を具現化することもある。いずれにしても、安定した勉学・それを生かした進路は望むべくもない。
 
 しかし、以上二つのどちらにも該当しないケースも見かける。
 
 私が知っている人のなかに、こんな人がいた;子どもの教育にそれなり熱心な親で、家庭教師をつけたり、教育教材を買ってきたり、かなり頑張っている。子ども本人もグレる気配はない。けれども、勉強してはいても成績はあまり伸びないし、むしろ中学校2年生ぐらいからは成績が急下降しはじめていく。そういう人だ。
 
 Rさんも、そういう人の一人だった。
 
 Rさんの家は、父親も母親も典型的なブルーカラーで、TVや週刊誌に載っている情報をそのまま鵜呑みにして疑わないような雰囲気だった。そして大量の書籍・大量の教材をRさんに買い与えているけれども、どういう基準で・何を意図して教材が選ばれているのかは傍目に見てよく分からなかった。なにより、そうやって書籍や教材を買ってくる親自身が、それらの内容や意義をほとんど理解していなかった。父親にはかろうじて学問的蓄積があるらしかったが、残業や付き合いで留守の日が多く、父親自身が教育にコミットしている兆候は乏しかった。そういった諸々から察するに、Rさんの家庭は、親子の会話のなかでアカデミックな話題が殆ど出てこないようだった。
 
 このRさんの例に示されるように、いくら親が「学問は大切」「教材も大切」と認識していても、教育リソースの使い方を親がロクに知らず、子ども自身も教育リソースの使い方に自発的に気づけなかった場合には、「走れ、上昇志向だ。勉強すれば栄達できるぞ!」と親が言っていてもなかなか上手くいかない。親自身が週刊誌やTVのバラエティ番組にしか関心が無く、親子の会話がそういう話ばかりの家庭の子どもと、もう少しアカデミックな番組や書籍に親が興味を持っていて、親子の間でもそれらしい会話が絶えない家庭とでは、教育リソースの運用効率は天と地ほども違うのではないか。いくら親自身が「学問は大切」と口を酸っぱくしていても、その学問に対する親自身の姿勢やノウハウがダメダメだと、かなりのハンディになるんじゃないかと私は疑っている。
 
 

教育環境としての親、教育環境としての家庭

 
 ここで、子どもの教育環境について考えてみる;教育環境というと、学校とか、学習塾とか、教師とかを連想する人がいるかもしれない。でも実際には、家庭環境や親自身のほうがそれ以上に重要なんじゃないか、と私は思っていたりする。
 
 例えば、鼻歌代わりに毎日母親がピアノを弾いているような家庭の子どもは、かなり高い確率で、幼少期からピアノが弾く習慣を身につけるだろう。あるいは両親の仕事や交友関係のために外国人が頻繁に家庭にやってきて外国語で会話するのを見聞しながら育った子どもは、外国語のインストールにアドバンテージを得やすかろう。私の身近なところでは、親からシューティングゲームの技能を譲り受けて全国トップスコア級のプレイヤーになった人もいる。
 
 これらは極端としても、お茶の間で普段流れている番組がテレビショッピングやバラエティ番組なのか、それともヒストリーチャンネルディスカバリーチャンネルの類なのかといった、家庭内に存在するアイテム・話題・習慣といったものは、知らず知らずのうちに子どもに浸透していって、また脳味噌の使い方や価値観の形成に微細な影響を与え続けるだろう。個々の影響はきわめて小さいものかもしれないが、生まれた時から何年も何年も刷り込まれていけば“塵も積もれば山となる”。世の中には、こういうことを熱心に研究している人がいて、
 
 

再生産 〔教育・社会・文化〕 (ブルデュー・ライブラリー)

再生産 〔教育・社会・文化〕 (ブルデュー・ライブラリー)

  • 作者: ピエール・ブルデュー,ジャン・クロード・パスロン,宮島喬
  • 出版社/メーカー: 藤原書店
  • 発売日: 1991/04/30
  • メディア: 単行本
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 このフランスのブルデューという社会学者の人は、生育環境による“塵も積もれば山となる”過程について、ハビトゥスだの文化資本だのといった用語を使って説明している。でも、この人の本は、どうやら面白いことが満載なんだけど私には難しすぎて十分に読みこなせない。そこで最近こちら↓を読んでみたんだけど、
 
差異と欲望―ブルデュー『ディスタンクシオン』を読む

差異と欲望―ブルデュー『ディスタンクシオン』を読む

 
 こっちはかなりわかりやすい。というか、気味が悪いぐらいわかりやすかった*3。枝葉末節の成否はさておき、生育環境と子どもの進路との関係について、興味をそそる本だと思う。
 
 で、こうした本に書いてあることや、さっき書いた「教育リソースを当てずっぽうに与えることしか知らない親」のことを思い出すと、これって、親の意志や意向だけの問題じゃないよね、と思わざるを得ない。
 
 確かに親が子どもの教育に熱心なのか、そうでないかも重要なポイントの一つだとは思う。
 
 けれどもそれ以前の問題として、その親自身が、どこまで学問や教養に対して開かれた生活をしていて、子どもの側がどこまで薫陶を受けられるのかも、運命を左右すると思う。いくら親が子どもに勉強しろ努力だと伝えていても、その親自身が、勉強のメリットなんて何処吹く風というようなライフスタイルを提示していて、しかも子どもに与える教育リソースや教育方針も行き当たりばったりでは、なかなか上手くいきそうにない。勉強のモチベーションという意味でも、勉強の効率性という面でも、頓挫しやすいんじゃないだろうか。
 
 高度成長期以来の日本では、代々の知識階級の子弟だけではなく、いわゆる庶民の家庭も大学を進路として考え始めるようになった。平成14年にセンター試験受験者が60万人を突破したのは、そういう時代の変化を象徴していると思う。一見すると、これは「どこの誰でも成績次第で自由な進路が取れるようになった」ことを意味しているように見えるし、実際、代々魚屋を営んでいる家の長男が、スルスルと勉強が出来て東大に進学していった的な話を見かけないわけでもない。でも、そういった例外はあるにしても、両親が学問とは縁の遠い生活をしている家庭は、ただそれだけで、子どもの学業成績のアップや体系的な知識・教育の習得面でハンディを背負っているのではないかと思えてならないのだ。ネガティブな表現を避けるなら、両親が学問に縁のありそうな生活や会話をしている家庭は、そのぶんだけアドバンテージを得られる、と言うべきか。
 
 冒頭で紹介したリンク先の記事は、親が教育にネガティブな意志を持っていると足枷になるよという話だったけれど、実際には、親の意志だけじゃなく、親の暮らしとか、親子の会話とか、お茶の間で流れているテレビ番組の内容とかの集大成のほうが、ヤバいんじゃないかと思ったので、この文章をまとめてみることにした。
 
 

ちょっと補足。

 
 それと、私はこう思うんです。
 
 親が教育にポジティブな場合もネガティブな場合も、ほとんどの親*4は、子どもの未来が出来るだけ良い方向に発展するように願いながら、子どもに対してよかれと思ってあれこれ振る舞っているんだと思います。教育に対してネガティブな親でさえ、自分が知っていて一番上手くいった処世術を教えているつもりかもしれない。方針の定まらない教育漬けを子どもに強いた挙げ句、子どもをプレッシャーで潰してしまうような親も、それはそれで、子どもの未来を祈っていないなんてことは多分無いと思うんです。きっと子どものために最善を尽くそうとしていて、その最善の結果が、ああだったり、こうだったりするんでしょう。そんななかで、もし何かを恨むとしたら、何を恨めばいいんでしょうか?親ですか?運命ですか?社会システムですか?時代ですか?
 
 でも、少なくとも、「バカ親のせいだ」的に考えるだけじゃしようがないんじゃね?とは思うんです。
 

*1:もちろん、「臨床で遭遇する」という表現を使うように、出会ったケースは、自分の理想とするライフスタイルと現実とのギャップに耐え切れずに心療内科を受診するに至る人達であったり、勉強にリソースを集中させ過ぎた挙げ句、それ以外の世間知が不十分なまま、ついに社会適応に難が生じて行き詰まるような人達であったりした。なお、ここには統合失調症や双極性障害といったガチな精神疾患によるダイレクトな影響を蒙っているケースは含まない。そういったガチンコの精神疾患に罹患しているわけではないけれども、メンタルヘルスの葛藤や適応に問題が生じるに至ったケース、といった意味で書いている

*2:このなかには、胎児期に母親がアルコールやタバコをガンガン摂取していた、というようなものも含む

*3:この「わかりやすさの次元が違いすぎて気持ちが悪い」という感覚があるときには、元の著者の文章から、かなりいろんなニュアンスが殺ぎ落ちているかもしれないと警戒してかからなければならない、と思う。このエントリの主旨に沿って考えると、この「わかりやすすぎるときは警戒しろ」と勘ぐってかかる習慣自体がひとつの文化資本でありハビトゥスということになるのかもしれない。

*4:それこそ虐待やネグレクトを日常的にやっているような親は例外ですが