シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

あなた、食べログの星の数で味を確かめてるんですか?――メシを食わずにテキストを食っている人達

 
 食べログという病。|from_NY 山本直人のブログ
 
 上記リンク先の「食べログという病。」という記事が興味深かった。その主旨は、
 

食べ物を巡る情報や評価がネットに溢れるようになった結果、自分の食べているものについての他人の評価が目に入りやすくなった。その結果、自分がちゃんとおいしいものを食べているのか心配になったり、余所の人のほうが自分より良いものを食べているんじゃないかと嫉妬を抱きやすくなったりするようになった。

 といった内容だと私は把握した。
 
 なるほど、この感性は確かにビョーキだ。「食べログという病。」というタイトルをつけるのもわかる。コミュニケーションツールが食領域にまで拡張すれば、こういう感性が現れてきてもおかしくない。そして食べログのようなネットコミュニティができれば、“グルメ通”を気取りながら「こんな店をおいしいって言っているやつはアホ」的な鼻息の荒いことを書く人も当然現れる。そういう文章を眺めているうちに自信が無くなってきて、“このお店は「アリ」”“このお店は「ナシ」”といった正解不正解を気にしたくなる人もいるだろう。そして、店についている食べログの星の数を気にするようになる……。
 
 これは、惨めなことだと思う。
 
 漫画『孤独のグルメ』のなかに、こんな台詞がある。
 

孤独のグルメ (扶桑社文庫)

孤独のグルメ (扶桑社文庫)

 

 「モノを食べる時はね、誰にも邪魔されず自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ、独り静かで豊かで……」

 
 メシを食っている時ぐらい、誰にも邪魔されずに楽しんだっていいじゃないか。コミュニケーションの洪水に溺れがちな日常・他人のまなざしに晒され続ける日常のなかで、「食べる」という営みは、そういった他人のまなざしや評価から距離を置ける貴重なひとときであった筈だ。嗅覚・味覚・触覚といった自分自身の感覚を総動員し、自分自身の記憶と照合しながら、誰にも邪魔されず&誰も邪魔することなく楽しめるのが「食べる」という営みではなかったのか。『孤独のグルメ』という作品には、そういう歓びがきっちり描かれていたと思う*1
 
 これとは対照的に、食べログを見て不安になったり嫉妬したりするような人は、メシ食ってる時もずっと、他人の評価とか、他人のまなざしとかを忘れることが出来ないわけだ。食べログを見て不安や嫉妬を感じる人々が優先しているのは、自分がおいしいと感じたのか・まずいと感じたのかといった個人的な体験や感覚ではない。食べているものが「アリ」なのか「ナシ」なのか――つまり「私は他人よりグルメなのか」「私は他人より不味いものを食べたりしていないか」――のほうである。「食べる」という行為までもが、他人のまなざし・他人の評価を獲得するための手段として動員されていると言い換えてもいいだろう。こうした度合いが高くなればなるほど、「食べる」という営みは他人のまなざしに汚染されて、自分個人の体験や感覚を覆い隠していく。
 
 今、私は「汚染されている」と書いた。
 
 私は、他人のまなざし・他人の評価に汲々とするあまり、自分個人の体験や感覚を蔑ろにしてしまうのは時間の無駄だと思っている。あらかじめ断っておくが、私は「食べログを使うな」と言いたいわけでもないし、「グルメ雑誌を読むな」と言いたいわけでもない。知らない土地で外食をする際にも、新しい店を開拓するにも、それらは大いに役立つし、私も実際使っている。問題はそこじゃない。自分の味覚や嗅覚を研ぎ澄ますことなく、他人の評価や評判にばかり神経をつかって、あまつさえ後者をありがたがるような「食べる」は勿体なくて、まして「グルメ」を気取るのは馬鹿げているんじゃないかと言いたいわけだ。
 
 第一に、それは人間疎外である。
 
 あなたが、その瞬間美味いと感じたものこそがあなたにとっての美味い食べ物じゃないのか?それともなにか?どれだけ美味いと体験しても、食べログで低評価なレビューを読んだ後は、体験がニセモノになってしまうとでも言うのか?
 
 なぜ、自分自身の味覚・嗅覚・触覚で感じたものをそんなに簡単に否定してしまって、どこの誰ともしれない野郎のグルメ語りに身を委ねてしまえるのか?どうしてそんなに自分の感覚を簡単に捨ててしまえるのか?これは自分自身の味覚・嗅覚・触覚に対する背信行為である。自分の味覚・嗅覚・触覚を大事にすることなしに、他人のテキストにおんぶにだっこで食べ歩きをやったとして、それであなた自身の味覚・嗅覚・触覚が研磨されるのか?なにより、そんなことやってて楽しいのか?自分の感覚を置いてけぼりにして、他人のテキストと、他人の顔色にばかり神経を遣っているような姿勢が、本当にグルメと呼ぶに相応しい姿勢なのか・食道楽という言葉に該当するのか、私には疑問である。
 
 第二に、それは可能性の喪失である。
 
 食べログのようなツールが普及したことによって、素通りしてしまいそうな飲食店の情報も入手可能になった。見知らぬ街でも飲食店を見つけやすくなったし、よほど注意深く街を歩いていない限り見落としてしまうような、雑居ビルの一角に隠れている店舗も見つけられる。食のフロンティアに漕ぎ出すための新しい地図が追加されたのだ!素晴らしいことだと思う。
 
 にも関わらず、食べログの星の数が少ない・レビューが否定的といった理由で「ここはやめておこう」「ここは「ナシ」」と候補を削ってしまえば、せっかくの可能性は萎んでしまう。どこの誰が書いたともしれないレビューや評価をもとに選択肢を萎めてしまうような人間の、どこが「グルメ」なのか?本当に人よりもグルメだというのなら、否定的なレビューが書いてあろうがなかろうが、その店の近くを通りかかったら実際に食べてみて、自分なりに検証するのではないのか?百聞は一見にしかず。せっかく食べログという新しい地図によって広がった可能性を、たかだか数行程度のテキストで否定して疑問に思わないセンスは、自称グルメから最も遠い何かだと思う。
 
 第三に、それは知的怠慢である。
 
 いやしくも「おいしいものがわかる人」「“知る人ぞ知る”グルメ通」と他人に思われたいなどと欲望しているなら、他人のレビューなんぞ話半分にして、まず自分の感覚で、おいしい/おいしくない・単純な味/複雑な味を吟味するのが筋だろう。そうやって、他人にわざわざ教えて貰わなくても店ごとの微妙な味の違いがわかるように自分自身を修練していくのが、本当の意味で「おいしいものがわかる」「他人よりグルメ」に近づく道ではないのか?なにも、ラーメンを千杯食べるまではラーメンを語るなと言いたいわけではない。そうではないけれども、「人よりもおいしいものがわかる自分」なる自意識を持ちたいなら、そのような自意識に相応しい内実を身につけるべく、日々、食の研鑽を注意深く重ね、あわよくば未知の美食を探し当てんとする探求心があって然るべきじゃないのか、と言いたいわけだ。
 
 ところが世の中には、他人の書いたテキストに依存して「おいしい」「おいしくない」を決定したり、あまつさえ、そういうレビューを暗記暗唱するような人がいる。ひどい場合、自分で飲み食いすることさえせず、レビューだけ読んで「この店は美味い・美味くない」などと言及する人もいる。これを怠慢と呼ばずに何と呼ぶのか。味覚の修練も、実地の体験も軽視し、食のレビューばかり頭に詰め込んで、しかもそのレビューを信じて疑わず、レビューの記述内容からロクにはみ出そうともしないような人は、メシを食っているというより、テキストを食っているようなものだ。
 
 

食分野のコミュニケーション化と、テキストに依存したグルメ

 
 食べログに限らず、現代の日本には食に関するコミュニケーションや情報が氾濫している。そんななか、『孤独のグルメ』的においしい体験を求めている人だけでなく、「知る人ぞ知るグルメを知っている私」「他人よりおいしいものを食べている私」という自惚れを求める人がジャンルに参入して、コミュニケーションのなかで差異化ゲーム/優越感ゲームを展開するのは、当然の成り行きだったとは思う。ラーメンなどが典型的だが、最近はB級グルメのサブカル化も著しい。
 
 しかし、こうした食分野のテキスト化・コミュニケーション化・サブカル化が進行した結果として、『孤独のグルメ』に象徴されるような他人のまなざしに邪魔されずに食べるという喜びが退いてしまうのは、とてももったいないことだと思う。そのようなテキストとまなざしに汚染された食体験に溺れる人には、「めざめよ!」と声を大にして言いたい。「食べログという病。」は、食体験を豊かにする以上に貧しくするリスクだ。舌で味わわず文字で味わう人々は、ほとんど呪われているも同然である。文字や蘊蓄で憶えるんじゃなく、舌で憶えるのが筋だろうに。
 
 もちろん、グルメというフィールドで差異化ゲーム/優越感ゲームをやりたい人は、やればいい。けれどもやるからには、きちんと自分の感覚を磨きあげるための修練と経験を積み上げて、新しいおいしさにもいち早く気付ける人になって欲しいと思う。そういう真性にグルメな人には、惜しみなく敬意を払いたい。けれどもこの場合も、自分の感覚や体験をおざなりにせず、磨き上げることなしに、他人よりもグルメな自分自身なるものを鍛造できないと思う。その際に、他人のレビューを参考にするのも良いと思うけれども、他人のレビューの顔色を伺ったり、他人のレビューに束縛されるような食体験になってしまうようなら、それでおしまいである。そのような人にとっては、食べログのようなコミュニケーションツールは、自分自身の感覚や体験を鈍感にしてしまう毒として作用するだろう。
 
 こういう事は、食体験というジャンルに限らず、他の色々な趣味分野やサブカル領域でもしばしば起こるものだと思う。ジャンル内でのコミュニケーションや雑誌記事を追いかけているうちに、「「アリ」とされている作品」「話題作」を追いかけるのに精一杯になってしまって、いつしかジャンル内の自分の好みを見失いかけている人は結構いると思う。あるいは、自分自身の体験や感想をよりどころにする以上に、他所で耳にしたレビューや感想に身を委ねているうちに、他人のテキストの劣化コピペ兵と化してしまう人も。彼ら/彼女らは、本当にそのジャンルを愛しているのと言えるのだろうか?本当にそれぞれのコンテンツを愛していると言えるのだろうか?しかし、他人のまなざしに身を委ね過ぎてしまう人・依存してしまう人には、こうした自己喪失の可能性がつきまとう。
 
 ともかくも食べログの時代はやってきた。食べログは、使いようによっては食体験を豊かにしてくれるけれども、他人のまなざし・他人のレビューに敏感すぎる人は、たやすくテキストの下僕になってしまうだろう。自分の舌で食べ物の味を確かめるのでなく、食べログの星の数で食べ物の味を確かめるような堕落を避けるためにも、こうしたコミュニケーションツールとは適切な距離感を保ちながらお付き合いしたほうがいいと思う。
 
 [関連]:ネットの意見相互調整機能に個人は抵抗できるのか? : ARTIFACT ―人工事実―
 

*1:だからこそ、新幹線のなかで他人に迷惑をかけ、他人のまなざしを集めてしまったジェットシューマイの話は失敗談として描かれていたのだろう