シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

ニコニコ生放送で脱いでも「救い」になんてなりませんよ

 
 ネットで承認欲求を満たす少女達。その原因と責任と。 - Togetterまとめ
 
 リンク先で、こんな問題提起を見かけた。
 
 曰く、「『ニコニコ生放送』などで脱いでる若い娘のなかには、悲惨な境遇を生きている人が多い。そういう子どもにとって、動画で脱いで承認欲求を充たすことが唯一の救いなっている。それを取り上げたら、地獄しか残らない」「規制には違和感を感じる」とのこと。
 
 そう言われると言葉に詰まりそうにはなるが、考えてみるとやっぱりおかしいような気がしてきたので、以下に反駁してみる。
 
 

1.天下の往来で若い娘が服を脱ぐのは社会的にどうなのか

 
 まず、インターネットで――とりわけ公開範囲が無制限の領域で――若い娘が“脱いで”男の視線を集めるのは、公序良俗の観点からみてどうなのか。
 
 ネットの生放送動画で服を脱ぐという行為は、天下の往来で服を脱ぐ行為とそんなに変わらない。昔、秋葉原の大通りで破廉恥なパフォーマンスを行って警察沙汰になった女がいたが、あれとどこが違うのか?いや、現在でもまだ、ネットと路上には多少の違いが残っているかもしれないが、ここで触れたように、いまやネットは public space としての性質を急速に帯びつつある。昔の、アングラだったインターネットでストリップショーをやるのとは、わけが違う。
 
 『ニコニコ生放送』で“脱ぐ”場合は、動画にアクセスが集中しないうちは、せいぜい「大通りではなく、細い市道でこっそり脱いでいる」ぐらいの感覚かもしれない。だが、それでも見物人は集まってくるし、細い市道でならやっても構わない、というものでもあるまい。細い市道でもそこはWWW、つまり天下の往来であってストリップ小屋ではない*1。未成年なら尚更だ。
 
 

2.「豚もおだてりゃ木に登る」問題

 
 リアルタイム動画の生放送に特有の問題もある。
 
 リアルタイムで不特定多数の反響が得られる場所*2では、パフォーマーに対する要求はエスカレートしやすく、パフォーマー側と視聴者側の力学も偏りやすい。百人、千人という視聴者のまなざしが、「脱げー!」「脱げー!」とのしかかってきた時、一個人がその雰囲気なり誘惑なりに流されず自制を保つのは、それなりに大変なことだと思う。
 
 [関連]:“世界に配信される内輪ウケ”が孕むリスク - シロクマの屑籠
 
 「豚もおだてりゃ木に登る」というけれども、おだてる声が何十人何百人と集まった時の力は、並大抵ではない。よほど意志力を持っているか、ブレーキをかけてくれる人が傍にいない限り、雰囲気や誘惑に呑まれてしまいやすい。思慮の足りない未成年の場合は、特にそうだろう。
 
 

3.不遇な娘が承認欲求を充たすには“脱ぐ”しか無いのか

 
 そもそも、不遇な娘が承認欲求を充たすためには、“脱ぐ”しか方法が無いのか?という疑問がある。助平な男どもの視線を集めるには“脱ぐ”のが手っ取り早いのは事実だろう。さりとて、承認欲求を充たしている女性の全てが“脱いでいる”わけではない。
 
 現実を顧みれば、大きな不幸や問題を抱えてはいても、“脱ぐ”以外の方法で承認欲求を充たしている人・心理的なホメオスタシスを維持している人がたくさんいる。漫画同人誌で救われている人もいれば、部活動への参加で救われる人もいる。手に職を付けるためのプロセス・環境が救いになっている人もいる。ひとことで承認欲求の充たし方と言っても、社会的に最も有用なものから最も有害なもの*3まで・高度に洗練されたものから原始的なものまで、たくさんのバリエーションが存在するわけで、そのなかで、公衆の面前で“脱ぐ”という承認欲求の充たし方は巧いとは言い難い。
 
 

4.「脱げば承認欲求を充たせる」と学習して良いものか

 
 それと、「脱げば簡単に承認欲求が充たせる」という快感に未成年のうちに慣れていくのを放っておいて良いものかどうか、というのもある。ストリッパーを目指すのでない限り、そういう技術に熟達し習慣慣れしても、成人後の社会生活に役立つことは少ないだろう。むしろ、そういう動画を public space に公開していることが、将来、何かの差し障りになる可能性まで含めて考えるなら、判断力が十分とは言えない年頃の娘に「脱げば承認欲求がイージーに充たせる」なんて覚えさせてはいけない&習慣化させてはいけないと思う。
 
 このあたりは、未成年自身の自己判断に委ねるべきではなく、保護者およびサービス提供者が、もっときっちり制限をかけていくべき、と私は考える。やや厳しい基準かもしれないが、未成年が『ニコニコ生放送』や『Ustream』のようなネットサービスを使用するにあたっては、成人証明または保護者承諾を求めるぐらいでもいいんじゃないだろうか。未成年の健全な育成と、リスクからの保護について考えるなら、それぐらいやったほうがいい。
 
 あるいは、未成年者専用のサービスを設けるか、未成年者の動画ログが残りにくいような配慮を行うかして欲しい。判断力が十分ではない年頃の人間に、生放送の動画配信は危険すぎる。
 
 [関連:]黒歴史がアーカイブになってしまう時代 - シロクマの屑籠
 
 

5.「脱いで承認欲求を充たす救い」は本当に救いなのか

 
 そして私が一番引っかかったのは、不特定多数を相手に“脱いで”承認欲求を充たすことを、本当に救いと言って良いのか、という点だ。
 

 「ニコ生で子供が被害を受けてるからやめさせろ」ではなくて、そこはその子が唯一救われている場所であって、どこから逃げてそこに来てるのかという観点が抜けると、逃げ場を閉ざされた子供には地獄しか残らない

http://togetter.com/li/262623

 
 この文章の、「その子が唯一救われている場所」というフレーズは正しくないと私は思う。「その子が唯一承認欲求を充たせる場所」と訂正すべきだ。
  
 『ニコニコ生放送』に限らず、ネット上でストリップまがいのことをすれば、その瞬間は有頂天の気持ちになれるだろう。まして相手が一人や二人ではなく、何十人何百人からのアテンションの大洪水となれば尚更である。
 
 しかし有頂天になれるのは、アテンションの濁流に飲み込まれている、その瞬間だけである。WWWに向かって“脱いで”、その瞬間強烈な快感を得た人は……脱いでいない大半の時間をどう感じながら過ごすだろうか?承認欲求に飢えた状態で、イライラしながら、承認欲求を渇望しながら過ごすのではないだろうか。結果、再び承認欲求を充たすために動画配信を繰り返し、観衆のマンネリズムを回避し一層強烈な快感を求めるべく、過激なパフォーマンスへと引っ張られていくのではないだろうか。
 
 これでは「唯一救われている場所」というより、執着無間地獄ではないか。
 
 瞬間的な承認欲求を求めてやまず、破綻するまで過激なパフォーマンスを続けてしまう境地とは、いかばかりだろう。『ニコニコ生放送』という名の赤い靴を履いてしまったがゆえに、アテンションの洪水と、なんにも承認欲求が充たされない日照りの状態とを行ったり来たりしなければならない境地を「救いの場所」と呼ぶのは、あまりにもブラックすぎる。そこに平安などある筈がない
 
 人間の心は、「とにかく承認欲求を充たせれば満足できる・幸せになれる」というほど単純ではない。“お立ち台”で浴びるように承認欲求を充たし、それ以外の場所では承認欲求が充たせない日照りを交互に経験する人は、瞬間最大風速的にどれだけ大きな承認欲求を集めても、幸福にはなれないのだ。むしろ、一番承認欲求が充たされた瞬間と、全く充たされない大半の時間とのギャップが大きいほど渇望は大きくなり、「もっと、もっと」という気持ちが逸るようになる。
 
 しかるに、『ニコニコ生放送』をはじめ、メディア上の“お立ち台”は、そういうギャップを狭めるのではなく広げてしまう。それも、果てしなく、だ。「承認欲求を充たしているほうが、充たしていないよりも不幸体感度はマシ」と思い込んでいる人は、ここらにへんに対して無防備すぎる。
 
 初心な子どもの「救い」について本当に考えるのなら、やたらとメディアのお立ち台に立たせたり、滝のような承認欲求を求めてやまない中毒者になるような道を勧めたりすべきではない、と私は思う。世の中には、もっと「救い」に近い道――そこまでいかなくても執着無間地獄から距離を取りやすい道――が幾らでもあることを思えば、そのへんのハイリスクさ加減は、もっと警戒されていいと思う。そして、メディア上の“お立ち台”のような華やかさに欠けていようとも、もっと日常生活に近い領域に「救い」なり平安なりを求めるほうが無難だ。
 

*1:然るべきゾーニングを施した空間で、成人が自己判断でやるのとはわけが違う

*2:それも、無責任な反響が得られるような場所

*3:ちなみに、有害な承認欲求の充たし方としてよく引き合いに出されるのは、ギャングだ。