シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

どんなコミュニティなら、劣等感を軽くできるのか

 
 前回の記事で、劣等感の軽減を期待するなら、「恋人」より「仲間」だ!と書いた。けれどもどんな「仲間」でも良いかといったら、たぶん、そうではない。この点について、twitter上で、以下のようなコメントを頂いた。
 

 

  

 
 これらを読んで、「ああ、コミュニティと言ってもピンキリだよなぁ」と改めて思った。
 
 世の中には、成員の劣等感を軽減するというより、むしろひどくしてしまうようなコミュニティがたくさん存在する。あるいは、刹那の不安を紛らわす為のコミュニティや一時凌ぎの憂さ晴らしのためにだけ有効なコミュニティも少なくない。「仲間」さえできれば何でもいい、という風に考えるのは危険っぽい。
 
 なら、どういうコミュニティが理想的で、どういうコミュニティなら駄目っぽいのか?そのあたりについて考えてみる。
 
 

1.劣等感に効かなそうなコミュニティ

 
 まず最初に、劣等感をむしろ酷くするような“地雷”コミュニティや、なんの効果も無さそうなコミュニティを挙げてみる。なお、このなかには、そのコミュニティに所属している間だけは劣等感を忘れられるものが混じっている。ただし、劣等感を忘れていられるのはコミュニティの成員として活動している瞬間だけで、一歩でもコミュニティの外に出れば、いつもの自信の無い、劣等感にまみれた自分自身が帰って来るという問題を抱えているので、お勧めできないこと甚だしい。
 
 ・教祖を拝むタイプのコミュニティ
 教祖を拝み、その偉大な教祖との一体感を充たすタイプのコミュニティ。教祖を偉大だと思い込み、なおかつ、その教祖との一体感を信じ込めている限り、「私=偉大な教祖=神」という図式が成立し、自分がとても偉くなった人間であるかのように錯覚できる。あるいは教祖に選ばれた人間であるかのように思い込める。これらの錯覚の最中は、劣等感は意識から追い出される。
 
 しかし先に述べたとおり、教祖とその教えの外に一歩でもはみ出ると、もとの劣等感まみれの自分に直面してしまうため、このようなコミュニティの成員は、四六時中、教祖とコミュニティに繋がっていたがるようになり、必然的にカルト化しやすい。
 
 
 ・組織に厳格な忠誠を求めるコミュニティ
 教祖はいないけれども、コミュニティのメンバー全員に厳格な忠誠を求めてやまないコミュニティも、難しい。このタイプのコミュニティでは、厳格に忠誠を誓っている限りはコミュニティ全体との一体感を感じやすく、その間は自分自身の劣等感を忘れることが出来る。
 
 しかし教祖崇拝型と同じく、これは自分自身の劣等感の問題を解決しているというより、コミュニティから優越感を“借りてくる”ことで暫時忘れていると言うべきもので、コミュニティを離れたら、すぐに劣等感が戻って来てしまう。コミュニティ外での活動を制限してかかるようなコミュニティの場合は、この問題は特に深刻化しやすい。
 
 
 ・一期一会のコミュニティ
 インターネットのオフ会をはじめ、コミュニティのなかには一期一会的なタイプのものもある。こうしたコミュニティは、持続的な人間関係に発展しない限り、劣等感にはあまり影響を与えない。もちろん、一期一会のコミュニティに百発百中で適応できれば、それはそれで自信に繋がるかもしれないが…。
 
 
 ・コミュニケーションの接点が特定コンテンツに限定されるコミュニティ
 いくらか持続的な人間関係になったとしても、特定のアニメやゲームのオフ会のように、接点が極端にコンテンツに限定されるタイプのコミュニケーションばかりの場合も、劣等感の軽減にはあまり役立たない。
 
 理由は二つ。
 1.そのコミュニティ内で良い体験が出来たとしても、コミュニティ内でのやりとりがコンテンツに依存していればいるほど、そのコンテンツを無くした時には何も残らない。例えば特定のアニメ番組のオフ会で、そのアニメの博識を評価された人は、その場は嬉しいかもしれないにせよ、その場を離れた時の劣等感には殆ど影響を与えない。「私が認められたのは、そのアニメ番組の話をしている時だけ」で完結してしまう。
 
 2.コミュニケーションの接点が特定コンテンツに限定されすぎるコミュニティは、そのコンテンツに皆が飽きてしまったら消滅してしまう。このため、一期一会のコミュニティと同じような性格を帯びやすい。
 
 
 ・ネガティブな感情で繋がったコミュニティ
 悪口や陰口を言い合うだけのコミュニティも、あまり劣等感の軽減には効果が無い。コミュニティの内側で吹き上がっている間は、しばし劣等感を忘れることも出来ようが、悪口や陰口を言っているだけでは、そのコミュニティの一歩外に出たときの劣等感にはなんら影響も与えない。件の、“こじらせ女子”コミュニティも、もし、それが悪口や陰口を言い合うだけのコミュニティに堕してしまうようなら、その効果は一時のストレス解消程度のものになってしまうだろう。
 
 
 以上のような条件のひとつまたは複数に該当するコミュニティは、劣等感の軽減に寄与しないか、悪影響さえ与える可能性がある。こうしたコミュニティには、自分自身の劣等感が改善するチャンスは期待しないほうが良さそうだ。
 
 

2.望ましそうなコミュニティ

 
 では、反対にどんなコミュニティなら望ましいのか。ここまで紹介してきたものとは反対の性質を持ったコミュニティだと思われるが、一応、列挙してみようと思う。
 
 
 ・交流が多軸的
 コミュニケーションや対人関係が、単一評価軸・単一コンテンツに依存しているのではなく、ある程度の広がりを含んでいるコミュニティ。単一評価軸やコンテンツに依存しないぶん、「認められているのはコンテンツに関する知識だけだ」と思い込むリスクを避けやすく、また、単一コンテンツに依存したコミュニケーションに比べて、幅のあるコミュニケーション技能や手法を身につける機会・場が得られやすい。
 
 こうした多軸的なコミュニティは、最初からそのような多軸性を備えている場合もあれば(例:旧来の地域社会のような)、単一のコミュニケーションを専らとしていたコミュニティが、時間やライフイベントとともに多軸的なコミュニティへと成長していく場合(例:ネットのオフ会で知り合った者同士が、付き合いが深まるうちに冠婚葬祭なども共にするようになる)もある。
 
 
 ・懐が深いコミュニティ
 “教祖と信者”型のコミュニティや、組織に厳格な忠誠を誓うようなコミュニティとは正反対の特徴を持った、コミュニティ内の成員の違いを認め、それを目にする機会もあるけれども、なんとなく集団としてのまとまりがあり、一応、共通の利害関係や目標も持っているようなコミュニティ。
 
 コミュニティ内に様々な考えを持った成員がいて、お互いの違いをそれなりに認識はしているけれども互いに相手のことをいっぱしの人間だと認めあい、自分達はつながっていられるんだ、と実感できるような場所は、きわめて貴重と思われる。多少の粗相や一時的な離脱にも、ある程度まで寛容なコミュニティならなお良い。そのような場であれば、劣等感が強い人でも「ここにいても大丈夫」というセンスを涵養しやすいと思われる。
 
 
 ・「麹」が存在するコミュニティ
 ただし、懐の深いコミュニティが長く栄えていくには、そのコミュニティを安定化させるための、味噌樽で言えば「麹」に相当するような人物が必要になる。人物がいない場合も、コミュニティそのものが歴史やポリシーをはっきり持っていて「麹」的機能を持っていて、成員がそれを尊重するような雰囲気が必要になる。
 
 懐の深いコミュニティであれば、それだけ色々な人の出入りがあるわけで、人の出入りのたびに性質が大きく変化していては、コミュニティはすぐに消滅してしまう。新しい成員をコミュニティに慣れさせ、いつか新しい成員を歓迎する常連として定着していくような流れをつくるには、その流れを維持するための人間の存在が不可欠だ。
 
 こうした「麹」に相当する人物は、高校や大学のサークルであれば、留年している名物先輩だったり、面倒見の良いOBだったり、存在感のある半幽霊部員だったりする*1。コミュニティの懐の深さを形成する必要不可欠の人物であるとともに、緩やかにコミュニティ内の秩序と歴史に貢献するような、そういう人物が存在するようなコミュニティは、見込みがあると思われる。
 
 

どういうコミュニティに所属するのか、が重要

 
 以上、「劣等感に効かなそうなコミュニティ」、「望ましそうなコミュニティ」を幾つか紹介してみた。ここで挙げた以外にも、劣等感を左右するコミュニティの特徴はまだまだあるかもしれない。ともあれ、ここで強調しておきたいのは、
 
 「どういうコミュニティに所属するのか
 「どういうコミュニティを選ぶのか
 
 が極めて重要ということ。
 
 「コミュニティなら何処でも良い」という考えはやはり危険といわざるを得ない。ハイリスクなコミュニティを避け、劣等感が強い人でも「ここにいて大丈夫」というセンスを涵養しやすいコミュニティをきちんと選べるか否かが、重要な分水嶺になるものと思われる。
 
 そういえば、現在劇場版で公開されている、アニメ『けいおん!』に描かれている軽音部もまた、懐の深い、交流の多軸的なコミュニティだった。あの軽音部ぐらい懐の深いコミュニティはフィクションとしても、それに近いコミュニティなら現実世界の中にもある筈。そのようなコミュニティを見つけたら、大切にすべきだろう。
 

*1:そして、そのような人物が、十年単位のスパンで交代していく