シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

監視カメラは21世紀の“神様”になれるか

 
 規律や道徳が内面化されている人は、状況や他人の目線だけに依存せず、他人の目線が届かない時にも、盗みや怠惰に陥らず行動できる。万が一、盗みをせざるを得ない時にも、それが罪*1であるという葛藤のもとで盗むだろう。誰もいないところでも、怠惰や堕落に陥りにくい。
 
 対照的に、自分の内側に規律や道徳がまったく内在化していない、状況や他人の目線だけに左右される人は、全てが状況任せ・他人任せになる。そのような人は、もちろんポリシーなど持っていないし、ただ、状況に流されるだけだ。周りがルールを守っている時には同じように行動するかもしれないが、他人の目線の届かない時にはルールもクソも無い。信号だって無視するし、他人の目の届かない(例えばプライベートな)空間では、やりたい放題やるだろう。怠惰や堕落を許す状況に対しても、なんらかの衝動に対しても、これといった免疫も無い。自分の内側に自分を制御する要素が無いのだから、当然である。
 
 このような人物は、自分の外側にある、環境・装置・保護者によって間断なくコントロールされていなければ、人の道を踏み外してしまうだろう。そして問題になるような行動に至った場合、「あなたが見張ってなかったから(制止してくれなかったから)、私が道を踏み外してしまったのだ。見張っていなかったお前が悪い」ぐらいに思うかもしれない。現に、そういう事を言って憚らない人間というのは、いる。
 
 こう書くと、「規律や道徳を内在化させてないやつは人間ではない」と言い出す人もいるかもしれない。しかし実際の人間は、理性の化身である前に、気分と欲望で動かされる動物的な生き物だったりするし、個人差も著しい。また、それらを社会的・文化的な文脈に沿って身につけていくためには、それなりの“社会システムによるサポート”を必要とする*2
 
 昔は、その“社会システムによるサポート”に相当するものが、“ムラ社会”的な相互監視と村のおやしろ様だったり、もっと大規模な“神の目線”“戒律”だったりした。多くの欠点や副作用を伴いつつも、これらの“社会システムによるサポート”は、個人の規律や道徳を内面化していく補助手段として、それなりに機能していた。
 
 ところが近年、“ムラ社会”や宗教が衰退し、個人の規律や道徳の内面化手段として目立たなくなってきた。現在、その“社会システムによるサポート”にまだしも近そうなのは、街のあちこちに仕掛けられた監視カメラや、電話サポートサービスに付き物の“録音”だろうか。ただし、これらの監視システムはあまりにも即物的なためか、規律や道徳を内面化するような効果を持っていない。確かに、カメラなり録音装置なりは、監視範囲内を規律と道徳のカラーに染め上げる効果は持っている。しかし、規律や道徳の内面化を個人に促すシステムとはなり得ていない。
 
 その科学的・即物的な装いのために、監視カメラや録音装置には、「人智を越えた何か」的な、いわば神性が宿らない。「人智を越えたな何か」であれば、畏怖することもできるが、科学的なカラクリが判明しているものを、人は敬おうとしない。
 
 これでは、ムラのおやしろ様や、戒律宗教が担っていた役割は期待できない。
 
 

「監視カメラに御札貼っておけばいいんじゃね?」

 
 とはいえ、この国は“八百万の国”とも言われアニミズムが染み込みまくっているので、ちょっとした工夫で監視カメラや録音装置は神様となって、個人の規律や道徳の内面化をサポートしはじめるかもしれない。
 
 監視カメラの無機的なデザインを、御札のデザインや巫女さんのデザインにしたら、そこに神性が宿るのではないだろうか。面倒なら、いっそ「道祖神」と書き込んでおくだけでも良いかもしれない。この国では表象に魂が宿る*3。だから、それらしいデザインを与え、実際に寺社で監視カメラや録音装置をお祓いしている風景をメディアに流しておけば、規律や道徳の内面化を促す機能が追加されるかもしれない。子どもの頃から「ほら、“おやしろ様”が悪いことしていないかみていますよ」と教え諭すようにすれば、監視カメラが超自我のごとく内在化されて、それなりに神として機能するようになるかもしれない。
 
 もし、監視カメラや録音装置が、犯人を捜すための道具である以上に、犯罪を未然に防ぐための装置だとしたら、そんな工夫も、長い目でみれば役立つかもしれない。少なくとも、このアニミズムの国では役に立つ余地があるかもしれない。監視カメラを、単なる監視装置から「規律や道徳を内在化させる」装置へと変えるための魔術。
 
 

「規律や道徳の内在化」機能を、誰が引き受けるのか

 
 尤も、「監視カメラに小細工をしてまで規律や道徳の内在化を促すのは良い世の中なのか」と問われたら、そんなことはないですねと答えたくなります。さりとて、街の人間の大半が規律や道徳を内在化させていない社会ってのも、それはそれでまずいんじゃないかなぁと思っちゃうんですよ。ある日大停電が起こり、街中の監視カメラの電源がオフになったとたんに暴力や略奪が滲み出てくるような社会・監視カメラの届かない領域では何があってもおかしくない社会は、それはそれで嫌な社会だと私は思います。
 
 20世紀以降、ムラ社会も神仏の類も暮らしのなかから退いていきました。小さい頃からお寺や教会に通ったり、村の神様を皆で祀るようなライフスタイルは、今では多数派とはいえません。そこにあった「規律や道徳の内在化」に相当する機能を一体誰が提供するのか?“監視カメラを神様にする”などという冗談はともかく、この機能を誰も引き受けないとすれば、これはこれで社会機能の一つの衰えだと思います。
 
 もし人間が、神や監視カメラが無くても、自然と聖人君子のような精神を身につけ振舞えるなら、この手の憂鬱な事は考えなくてもいいのかもしれません。けれど、実際はそうじゃないですからねぇ。どうすればいいんでしょう。
 

*1:または恥

*2:しかも厄介なことに、規律や道徳の類は、過度に内面化させすぎてしまってもいけない;雁字搦めになって動けなくなってしまうからだ。

*3:より正確には、「この国で何気なく生活している人は、なにがしかの表象に魂を見出す傾向にある」あたりか。