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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

勉強できる人しか便利に暮らせない社会

コミュニケーション

 
 いまの日本人は、とても便利な世の中を生きている。
 
 コンビニもインターネットもあるし、自分の人生もだいたい自由に選択できる。医療も治安もハイレベル。昔の人が見たら、さぞ羨ましがるだろう。
 
 そのかわり、賢くないと――あるいは勉強しないと――何もできない時代になってしまった。
 
 事務職に就きたいと思ったら、ワードエクセルは当たり前。子育てしようと思った未来のおかあさんも、子育てを一から勉強して、何が安全で何が危険か、自己判断しなければならない。行政サービスを利用する際も、あの煩雑な手続きを理解して申し込むのは一苦労だ。便利さにアクセスするためのハードルは、見えにくいところでとても高くなっていて、その恩恵に与れるのは、自分で調べて勉強できる人・賢い人だけだったりする。賢くない人・勉強もしない人ほど、自由選択の範囲は狭くなり、日常生活のリスクも回避しづらくなる*1。だから冒頭の文章は、正確には「いまの日本人は、賢い人ならとても便利な世の中を生きている。」あるいは「いまの日本人は、賢い人ほど便利な世の中を生きている。」と書き換えるべきだろう。
 
 一昔前だったら、地域の暮らしのなかでプレインストールされていく知識や知恵の割合が比較的高く、テクノロジーやメディアについていくための知識やリテラシーもそれほど身につけなくて済んだから、自分で勉強するか否かで差のつく割合は少なかったかもしれない。少なくとも、子育てのような暮らしのベーシックな領域に関しては、そうだっただろう。また「地域の禁則」のなかには、心理的抑圧という負の部分があるにせよ、身を持ち崩すリスクから個人を守ってくれるようなものも数多く存在した。
 
 ところが今や、そういった、地域社会のなかでプレインストールされていく知識や知恵の割合が絶対的に少ない。ベーシックな暮らしの知識・リテラシーを地域社会はもう授けてはくれないし、「これをやったら、お前、身を持ち崩すぞ」と叱ってもくれない。すべては自分で学ぼうとしたか否か次第だ*2
 
 加えて、日進月歩のテクノロジーとメディアの問題がある。パソコンを使いこなすこと・適切なインターネットリテラシーを身につけること――これらは全て、自分で学んで身につけるしかない。いや、身につけなくても、なんとなくパソコンを触ったり、なんとなくモバゲーを遊ぶぐらいは出来るだろう。けれども、それらを旨く使えるか否かや、リスクを避けられるか否かは、賢さの問題・学びの問題によって大きく左右されてしまう。むしろテクノロジーの絡む領域でこそハイレベルな判断力・学習能力・リテラシーが求められ、それが出来ない人は、怪しいソフトで情報漏洩したり、twitterを大炎上させてしまったりするかもしれない。リスク回避という面でも、賢さが求められるようになったわけだ。
 
 現代風のリスクは、えてして、直感的には危険と分からない。「匂いを嗅げば一発でわかる」ような、本能的に回避できる危険の占める割合は、ごく僅かになってしまった。現代の危険は、専ら「知識」「エビデンス」を知っていなければ、それがどう危ないのか・どれぐらい危ないのかを見当つけることができない。つまり「勉強」していない限り、安全の是非を判断できない、ということだ。「なんとなく危なそうにみえる」が本当に危ないのか、それとも実際には危なくないのかは、適切な学習を経ていなければ分からない。ましてや、放射能汚染や医療のような、「エビデンス」はあっても「絶対の正解」を語りにくい領域について適切に考え、適切に判断するには、(判断を留保する、という能力も含めて)相当な賢さが求められる*3。「専門家だけがエビデンスを勉強していればいい」という時代はどうやら終わったらしい。「どの専門家の言葉に耳を傾けるのか」を含め、高度な判断力と、自分なりに情報収集し勉強する能力が欠けているほど、リスクを回避しづらくなってしまう。例えば、賢くない人は、早期癌を健康食品だけで治そうとするようなリスクに引っかかってしまうかもしれない。
 
 

「啓蒙」は「勉強なんてしたくねーよ」という人には届かない

 
 こうした問題に対するお決まりの処方箋は、「啓蒙」である。
 
 「啓蒙」というと聞こえがいいが、要は、「お前ら勉強しろー!」ということである。
 新しいテクノロジーやリスクは、きちんと勉強しろ。
 リテラシーも、男女交際のノウハウも、勉強しろ。
 もし、勉強が足りないなら、勉強させる側の努力不足か、勉強する側の努力不足だから、「啓蒙が足りない」のである。さあ、「啓蒙」しようじゃないか!勉強しろ勉強しろ勉強しろー……。
 
 世の中が、勉強の好きな人や得意な人ばかりなら、それもいいかもしれない。しかし実際には、普段から知識を溜め込みたがる人はあまり多くないし、興味の範囲が狭い人だっているだろう。そして、学者が集めた統計学的なエビデンスを評価するより、扇動家の断定を信じてしまうのが人という生物のもう一つの側面でもある*4。「啓蒙」というやり方は、ある程度以上学ぼうととする、賢い人達にしか届かない。
 
 「啓蒙」という処方箋は、賢い人に限れば、かなり威力を持つし、現代風のリスクを避け、自由選択を助けしてくれると思う。だから私は「啓蒙」をやめるべきではないと思うし、それで、早期癌を健康食品だけで治そうとするような人が一人でも減ればいいなとは思う。しかし、この「啓蒙」という処方箋による解決自体が、現代の、賢さが求められる社会を形成する一翼を担っているかもしれない、という注意はあってもいいのではないか、とも思う。「啓蒙」という方法論は、それについていける勉強家と、「勉強なんてしたくねーよ」という人との生きやすさの程度を縮小せず、むしろ拡大するのではないか?
 
 

「頭空っぽにしていても生きやすい社会を!」

 
 世の中には、勉強の嫌いな人間がたくさんいる。
 
 ときに、「勉強しないやつは、不幸になっても当然。自業自得だ」的なことを言う人を見かけるが、そういう考え方には私は賛成できない。エビデンスを創る学者や啓蒙活動を行う専門家は、皆、勉強のできる“坊ちゃん嬢ちゃん”なのかもしれないし、よく学ぶ人からみれば、学ぼうとしない人は理解し難いかもしれない。けれども世の中は勉強好きな人間だけで構成されているわけではない。勉強家や賢い人ばかりが便利さの恩恵に与れるような社会は、どれほど凄いサービスに満ちようとも、それは理想的な社会とは言えない、と私は思う。
 
 私、頭空っぽにしていても生きやすい社会・勉強したくない人でもまずまず安全に暮らせる社会になって欲しいです。理想論だとは承知してますが。でも、どうせ未来を夢見るなら、勉強好きな人も、勉強が嫌いな人も、便利に生きやすい社会が来たらいいなって思うんですよ。
 

*1:尤も、学ばない人の自由選択範囲が狭いのは今に始まったことではないが

*2:あとはせいぜい、親が教えてくれるか否かぐらい

*3:「判断を留保する」というのは、特に不安を伴っている状況下では、かなりの知的基礎体力を要する。多くの人は、不安を伴っている状況下では、「判断を留保できない」。そのあたりは、地震後のネット上の書き込みがよく証明してくれていたと思う

*4:こういう事を書くと、例えば「せめてグーグル検索ぐらいしろよ」と言う人がいるかもしれない。なるほど、皆がスマートフォンを持つ時代には、いかにも思いつきたくなる言葉ではある。けれども、適切な検索ワードを打ちこんで求める情報を手に入れるのは、それ自体、簡単なことではない。グーグル検索のような、自発的な情報検索の精度には明らかな個人差があり、「PCを長く使ってさえいれば自然に上手くなる」というものではないように見える。うまく検索ワードを思いつけない人や、かえって妙な広告に拐かされる人もいる。