シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

誰がための「成熟」

 
 人は「成熟」や成熟の対義語としての「未熟」に言及する。「人は成熟しなければならない」と連呼する人もいれば、「成熟なんて必要ない」と反論する人もいる。「成熟」を巡っては、オンラインでもオフラインでも、こうした問答が飽くことなく繰り返されている。
 
 実際、一*1にとって、「成熟」は必要なんだろうか?いわれる「成熟」とは「未熟」の対義語なのだから、言い換えるなら「大人になれ、子どものままでいるんじゃない」ということなのだろう。では、子どものままでいて困る事なんてあるのだろうか。いつまでも自分の夢を追いかけ、いつまでも自分の欲求の赴くままに生きていくことの何がいけないのだろうか。例の、“自己責任”でやればいいじゃないか。
 
 そう考えると、現代社会において、子どもであり続けることはそう悪いことではないように思える。一個人の自己実現やdreams come trueだけ考えるなら、「成熟」という古臭い言葉に拘ってもメリットが無いように見える。個人主義的に考えるなら、還暦を迎えても二十歳のような気持ちのままでいたって、まあ、そんなものじゃないのか。
 
 

「あなたが成熟していないと困る人がいます」

 
 けれども世の中は個人主義だけでは回っていないし、「成熟」が欠如していると困る人が存在する。
 
 「成熟」が欠如したままの人が増えて一番困るのは、子どもや後輩といった年少者だ。
 
 子育てであれ、後輩や部下の育成であれ、年少の人達を育てるためには、育てる側が、それなりに「成熟した態度」が取れるようになっていなければならない。例えば、『自分自身の夢を追いかけるだけでなく年少者を育てること』『自分自身の欲求を棚上げしてでも年少者の面倒を見ること』『年少者の失敗やはみ出しに対して寛容であること』に注意やリソースを振り分けてくれる年長者・養育者がいないと、年少者はなにかと大変である*2。少なくとも、自分探しや自分の欲求にしか注意やリソースを振り向けないような年長者・養育者では困る。
 
 “未来を担う世代を育てる”という観点に立つなら、やはり「成熟」は不可欠だと私は思う。この「成熟」は、親や学校教師といった直接的に子どもにかかわる人達だけに求められるだけでなく、本来、社会で子どもと接点を持つ全ての人に求められるのだろう。電車の中で泣いている子どもや、初めての営業で要領を得ない新入社員が、それでも社会に慣れて成長していくためには、それを取り囲む大人の「成熟」、少なくとも「成熟した態度」がどうしても必要になる――見守るにせよ、抱きかかえるにせよ、叱るにせよ――。児童や学生、社会人ルーキーに対してまで自分の欲求第一主義でしか振舞わない大人が増えてしまったら、どうやって子どもは社会に慣れていけばいいというのか?そんな調子では、子どもを萎縮させてばかりで、自発性など育つまい。
 
 

誰かが「成熟」を引き受けなければならない

 
 最近は、「成熟」なんてまっぴらごめんという大人が増えている。子どもに対して子どものままに振舞う親・子どもの前でも信号無視をやってのける大人・ルーキーの失敗を心理的に追い詰めるような大人は、今日日、珍しくない。しかし、年少者に「成熟」を提示してくれない大人達に囲まれて育った子どもは、不幸だと思う。
 
 この観点から見れば、「成熟なんてしなくていいんだよ」と主張している人達は、「後の世代のことなんて考えないで、自分の欲求だけ追及しようよ」と言っているようなものである。自分達の世代だけで社会が完結しているなら、それもいいだろう。「成熟した態度」などという重い服を脱ぎ捨てたほうが、ラクに決まっている。
 
 だが将来、そんな中年や老年ばかりの世の中になったら、その世代の下に生まれ育ってくる未来の子どもや若者はどんなに悲惨だろうか?いや、将来という表現は正しくない。現に、世の中はそうなりかけている。今、子どもが上手く育ちにくい・育てにくいといわれる理由の一端*3には、こうした「成熟」を引き受けない大人が増え、「成熟」が宙ぶらりんになっても構わないという世情もあるのだろうと私は思う。そして、そんな「成熟」を避けたがる大人達の後姿を見つめながら、現代の子ども達は育っていくのである。
 
 そう思うなら、「成熟なんて要らない」なんて言ってはやっぱりまずかろう。誰かが「成熟」を、せめて「成熟した態度」を引き受けなければならない。自分達より若い世代のために。
 

*1:ちなみに成人という言葉自体、「人に成る」と書く。

*2:特に、子ども時代においてはそうだろう

*3:もちろん全てではない