シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

目に見えにくい、子どもの“読書格差”

 
 生涯所得を数千万円変える“本当の”情報格差/若者よ書を求め街へ出よ? - デマこい!
 
 リンク先は、子ども時代の蔵書数と情報格差についての記事で、面白かった。
 
 「子ども時代の蔵書数」が生涯所得と相関するのかどうかは知らないけれど、脳が急成長している時期にどんな体験をするかによって、子どもの能力獲得と素養の伸びしろが左右されるだろう、とは推定したくなる。
 
 ところで、子ども時代の「読書」ってどんな体験だろうか。
 
 人は、「読書」を「一人で黙って本を読むこと」だと思いがちだ。大人の目線で考える場合はそれで間違っていないし、だったら「蔵書数が多ければそれで良し」ということにもなろう。しかしリンク先の文章が対象にしているような、子ども時代の「読書」について考える際には、そういう捉え方では足りない。ここでは、子ども時代の「読書」がどういう体験なのかを踏まえたうえで、“読書格差”について考えてみる。
 
 

三種類の「子どもの読書」

 
 まず、子ども時代の「読書」について、三つに分類してみよう。同じ「読書」でも、この三つの「読書」は受ける刺激・使う脳味噌の部位が微妙に違っているし、必要とされる時期も違っている。
 
 
 【1.一人で本を黙読する】
 大人と同じ形式の読書。眼で文字やイラストを追って、その内容を理解する。読書といって真っ先に連想されるのは、これだろう。
 
 しかし子どもにとって、一人で本を黙読するのはそれほど簡単ではない。小学校高学年には造作も無いかもしれないが、絵本を読み始める最初期の子ども達――それこそ『ノンタン』や『11ぴきのねこ』を読むような――がいきなり黙読できるわけではない。
 

ノンタンぶらんこのせて (ノンタンあそぼうよ (1))

ノンタンぶらんこのせて (ノンタンあそぼうよ (1))

11ぴきのねことあほうどり

11ぴきのねことあほうどり

 
 “ある程度本を読み慣れるような年頃までは、一人での黙読は難しい”という事実は、子どもの読書と、そのための環境を考える際に無視してはいけない。
 
 
 【2.音読する】
 一方、音読は目による情報収集だけでなく、発声を伴っている。そして発声は、句読点や単語の意味を踏まえたイントネーションを要する。しばしば音読は、養育者と一緒に行われる or 養育者が聞く形で行われ、そうでなくても養育者のイントネーションを手本にしながら行われる。
 
 つまり音読は「一人でやること」ではない。黙読に比べると、文字からの情報収集速度では劣るけれど、聞き手への意識・発声やイントネーションの制御といったプラスαのファクターが音読には備わっている。子どもが音読から学んでいるのは、文字の読み方だけではない。と同時に、文字に慣れ親しんでいく過程には、こうした非テキスト的な養育者側の関与が含まれている。
 
 大人の感覚では、音読は非常にマイナーな読書形態かもしれない。しかし子どもにとって、音読はそれほどマイナーな読書形態ではない。そして黙読に至る予行練習としても、親子間のコミュニケーションの一様式としても、役立っている。だから「音読を養育者と一緒に出来るか否か」もまた、読書への芽生えを左右する因子として意識すべきと思う。
 
 
 【3.養育者に本を読んでもらう】
 さらに遡ると、「読書」は誰かと一緒に読むものですらなくなる。
 
 本は父親や母親に「読み聞かせてもらうもの」になり、もっと言えば「読んでくれとせがんで読んでもらうもの」になる。
 
 この段階で子どもが体験する「読書」の内実は、養育者のやり方に依存している。具体的には、
 
 ・子どもが「読んで」とせがんできた時に、親が応えてくれるかどうか。
 ・子どもの求めに応じて読み聞かせるのか、強制的に読み聞かせるのか。
 ・しぶしぶ子どもに読み聞かせるのか、嬉々として子どもに読み聞かせるのか。
 ・棒読みなのか、イントネーション豊かな読み聞かせなのか。
 ・子どもの反応を確かめながら読み聞かせているか否か
 ・親子が目線を合わせながら読み聞かせているか、絵本だけを見ているか
 
 といった諸々によって、この時代の「読書体験」は違ったものになる。たとえば養育者が[しぶしぶ・棒読みで・子どもの反応無視]で読み聞かせているのと、[嬉々として・イントネーション豊かに・子どもの反応を確認しながら]読み聞かせているのでは、体験され記憶されるものはかなり違う。それがもし、毎晩就寝前の読み聞かせという形で年余に渡って積み重なるとしたら…。
 
 この段階の「読書」は、本が好きになるか否かだけでなく、親子の情緒的な結びつき・将来の音読のオリエンテーションといった幅広いニュアンスを含んでおり、その内実は重要で、非常にややこしいように見える。残念ながら、自宅の蔵書数や平均年収といった統計学的に拾いやすい数字に比べると、読み聞かせ方の差異を拾い上げるのはいかにも難しそうだ*1。が、無視して良いとは思えない。
 
 

「家庭のなかで読書がどう取り扱われているか」というファクター

 
 加えて、読書を巡る家族内の会話・読書に対する親の態度なども、子どもの読書体験に影響する。
 
 例えば「面白かった?」「今度の話はどんな感じ?」といった具合に、親が子どもの読書に対して関心を示す家庭とそうでない家庭。または、親同士が本について会話しているのをしょっちゅう耳にする家庭と、本の話題が滅多に出てこない家庭。前者と後者では、仮に蔵書の数が同じでも、読書を巡る環境はだいぶ違う。
 
 それと、(特に)小さい子どもは親のやっている事・触っている事に関心を示して模倣したがるので、子どもが見ているところで親が本を読んでいるか否か*2によっても違う。
 
 子どもの前で頻繁に本を読み、本について会話する機会の多い家庭は、蔵書数も多い傾向にあるだろう。けれども蔵書数の多い家庭ならば本に関する親子のやりとりが必ず豊富かと言ったら、そうでもあるまい。いくら蔵書がたくさんあっても、子どもが蔵書に好奇心を向けたくなるような親の振る舞いを欠いていれば、蔵書を漁り始めるスタートの時期が遅れてしまいそうだ。
 
 一応、小学校低学年ぐらいになれば、一人で本が読めるようになるし、クラスメートの影響を強く受け始めるので、学年があがるにつれてこの問題は緩和されていく。それでもなお、思春期以前の段階では、親からの影響はまだまだ大きい。
 
 

「蔵書の数」だけでは見えてこない“読書格差”

 
 以上を踏まえて冒頭記事を振り返ると、「本棚にある蔵書」だけでなく、養育者の振る舞いや幼少期の読書体験をひっくるめて“読書格差”と呼びたくなる
 
 本当の意味で「恵まれた読書環境」を用意できている家庭とは、ここまで述べてきたような、数字に表れにくい部分もおろそかにせず、かつ蔵書数にも恵まれている家庭のことだろう。こうした、多岐にわたるファクターの総体として、読書に適した環境/そうでない環境という格差が生まれるという話なら、なるほどそうかもしれない。
 
 なお、この話は読書だけでなく、音楽、外国語、スポーツといった他ジャンルにも当てはまるように思う。どのジャンルであれ、親子が呼吸するように触れている環境・親がスパルタ的に教えている環境・親が全く触ろうともしない環境では、身につくスピードや才能の伸びしろが違うだろうし、子どもを心理的に潰してしまうリスクも違ってきそうだ。
 
 
 [関連]学力を決めるのは学校か家庭か――アジア主要国の比較分析――;一橋大学経済研究所 小塩隆士(PDFファイル)
 

*1:少なくとも私はそんな統計見たことが無い

*2:そしてどう読んでいるか