シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「思春期を一生懸命に過ごす」という才能

 
 昔、以下のような文章を見かけて、ああ、この人は“青春の供養”をやっているんだなぁと思った。
 
 けいおん!がくれた、失われたはずの三年間
 
 一生のなかで、中学生や高校生の時間を過ごせるのは一度きりしかない。その一度きりの時間を後悔だらけにしてしまうと、後になって心の整理をするために色々な儀式やレクリエーションが必要になるのかもしれない。その気持ちは、分かるような気がする。
  
 では、思春期に悔いを残さないようにする最適の方法は何なのか?辿り着いた結論らしきものは「自分の意志で何かに一生懸命に打ちこむこと」だった。遠回りのように見えても、思春期が幽霊となって夜な夜な蘇ってくるのを一番防いでくれるのはたぶんこれ。
 
 ここでミソなのは「自分の意志」「一生懸命」という部分だ。一生懸命に打ちこむ対象は、わりと何でもいい。ステロタイプな理想の学生生活*1を過ごせていなくても、自分の意志で何かを全力でやっていた人なら、思春期の亡霊に悩まされる度合いが少なくて済む。逆に、異性の恋人がいようが友人に恵まれていようが、それが自分の意志で選んだ結果でなく、(例えば)誰かに押しつけられた結果なら、思春期が後悔の色を帯びる可能性は高い。
 
 なお、「自分の意志による一生懸命」が、必ずしも成功裏に終わる必要は無い。むしろ、何かに一生懸命になっている思春期は、普通、いくばくかの挫折や失敗を含んでいる。それでもなお、「あの時、ああしておけば良かった」と回想される思春期と「あの時、あれだけやったけれども手が届かなかった」と回想される思春期では、違った色合いを帯びて記憶に残る。このことを考えるにつけても、思春期に人生のメタな傍観者を決め込むのは利口ではなく、自分にできる範囲で自分がやるべきと思ったことをやるに限ると思う。たとえ栄光に手が届かなくても構わないから
 
 

「思春期を一生懸命に過ごす」こと自体が一つの才能

 
 ただし、この問題を突き詰めて考えると、「自分の意志で思春期を一生懸命に過ごす」ということ自体が、一つの才能や素養、あるいは幸運のように見えてくる。
 
 ステロタイプな理想の思春期を目指すのであれ、プログラミングや音楽といった一つの分野に心血を注ぐのであれ、おのずと熱情をもって自分の思春期に突入する人と、おのずと自分の思春期から距離を取って醒めざるを得ない人がいるように見える。「自分の意志で思春期を一生懸命に過ごす」という課題は、「自分の意志で」という但し書きがついている以上、思春期になってから誰かに指図されてやるようでは本物ではない(それでは「他人の命令を一生懸命にやる」になってしまう)。
 
 つまり、思春期を迎えた時点で、この課題が出来るか出来ないのかは、たぶんある程度のところまで決まっている。その可否は、先天的な要因と環境的な要因の両方によって決まるのだろうけれど、確かなことは分からない。
 
 ただおそらく、思春期以前の段階で、その人がどれだけ自発性の芽を潰されずに済んだのか/うまく伸ばして貰えていたのか が、思春期を迎えた時点での自発性に関連するのだろう、とは思う。E.エリクソンのライフサイクル論に則って考えるなら、その自発性の鍵を握るのは4-5歳頃、いわゆるエディプス期ということになる。その時期を中心とした子ども時代に、どれだけ自発性が上手く育まれていたかが、「思春期を一生懸命に過ごせるか否か」に反映されるのだろうと推測しておく。
 
 

けれども現代の思春期は長い。チャンスはある。

 
 では、すべては幼い頃に決まっていて、何もかも手遅れなのか?
 そんなことも無いと思う。
 
 現代は、思春期が長く伸びがちで、多くの人は20年近く――35歳前後まで――続く。だから思春期の前半は一生懸命でなかった人が二十代になってからは一生懸命になれた、という場合は十分あり得る。運に恵まれれば、自発性の種を分けてくれるような誰か・自発的にならざるを得ないような環境に出会えるかもしれない。そういった境遇を得られれば「思春期を途中から一生懸命に過ごす」ことは可能かもしれないし、現に、そのような人生を歩んでいる人を何人も見てきた。
 
 そうでなくても、人は、変わらない時には変わらないけれども、変わる時には驚くほど変わる。簡単ではないかもしれないけれど、少なくとも、端からもう手遅れと諦めるべきではないと思う。
 

*1:あるいはインターネットスラングでいうところの“リア充”的生活