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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

なぜ初音ミクは“神”になったか――キリスト教徒はヴォーカロイドに魂を見いだせるか

オタク趣味

 
 
  
 【伝説】「米ロサンゼルス 初音ミク コンサート」が感動の大成功すぎてNHKのトップニュースに : 2のまとめR
 
 先日、アメリカのトヨタのCMに初音ミクが起用されたのに続き、KDDIも初音ミクを起用したという。しかもロサンゼルスの初音ミクライブは大盛況だったらしい。もう、ヴォーカロイドは日本のオタクのためだけのアイドルでもなく、マニアのためだけの楽器でもないということか。ともあれ、大企業のキャンペーンに起用されるまでに至った背景には、ヴォーカロイドに魅了され、支持し続けたたくさんのファンの存在があるだろう。
 
 ところで、初音ミクや鏡音リンといったヴォーカロイド達に、なぜ存在感を感じ取れるんだろうか。
 
 生身の人間のアイドルとのニュアンスの相違があるにせよ、少なくとも存在感という点では、ヴォーカロイド達が生身の人間に負けていると感じる人は、ファンのなかにはあまりいないように見える。*1。この事を、まじまじと考えると、案外不思議なことのように見える。
 
 「よくできた曲が増えたから」?
 いや、そんなに人間っぽい歌声でない楽曲でも、それはそれで味のある存在感を持っていたのがヴォーカロイドだったと思う。
 
 「二次元萌えに慣れた人達が支持したから」?
 それはあるかもしれない。少なくとも、日本のアニメ絵に対する親和性と、ヴォーカロイドに存在感を認める感性には、どこか繋がりはあろうとも思う。
 
 

「ヴォーカロイドが“神”になるということ」

 
 ともあれ、ヴォーカロイドに存在感をもたらしているファクターは、実際にはたぶん色々あるんだろうけど、無視できないファクターのひとつに、「ヴォーカロイドが“魂の入った神様”になっていること」があると思う。
 
 “神”としてのヴォーカロイド。
 
 ここでいう“魂の入った神様”というのは、それを崇拝する人がいて、崇拝する人の存在によって魂が吹き込まれて神が宿る――そういう神様のことだ。しかしこういう事は、八百万の国とも呼ばれる、このアニミズムの息づく国では、そう珍しい現象でもない。従来、日本人は、間近な自然や物品に魂を見出すことに長けてきたし、その伝統は現在でも絶えていない。たとえば、厠神や烏枢沙摩明王を祀る伝統は失われていても、植村花菜『トイレの神様』にはたいした違和感を感じず、あまつさえヒットさせてしまう現象を見るにつけても、この国に根付いたアニミズムは失われていないと考えられる*2
 

トイレの神様(DVD付)

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 そんなこの国において、人形、フィギュア、そしてキャラクターといった“本当はモノでしかないもの”に、魂を感じ取るのはむしろ自然なことではないか。旧家の戸棚に置かれている達磨やコケシ、夜中の博多人形に不気味さを感じ取るような感性と、ヴォーカロイドやサンリオキャラクターに存在感を覚える感性とは、たぶん底で繋がっている。人形供養や針供養に、違和感より安心感を覚えるような人々がたくさん暮らしている、この国の精神風土を思い出すにつけても。
 
 話が逸れるが、こういう観点で見るなら、秋葉原や池袋のオタク系ショップは、神社のような装置として働いているとも言えるし、アニメの舞台になった場所を旅することを“聖地巡礼”と呼び倣うオタクスラングも、実は、本来の聖地巡礼のニュアンスに案外近いのではないかと思う。自分が好きなキャラクターの存在感をより強く感じるにあたり、そのキャラクター達が描かれていた風景や舞台を訪れてみるのは、確かに効果的な手段に違いなかろう。勿論、フィギュアやねんどろいどをはじめとするキャラクターグッズを購入し、飾ったり収蔵したりしておくのも、そのキャラクターの存在感を感じるにはうってつけの手段だと言える。
 
 で、ヴォーカロイドの場合……である。
 
 彼女達は、“本当はモノでしかない”どころか“本当はデータでしかない”。が、モノかデータかは大した問題ではない。いや、厳密には幾ばくかの問題を含んでいる。「手にとって触覚をも楽しめる人形のようなもの」と「手に取ることが出来ずディスプレイの向こう側にだけ見えるキャラクター」との相違は、objectと、その対峙者との距離感に確実な影響を与える。そしてヴォーカロイドをはじめとする二次元の世界のキャラクター達は、「絶対に触ることが出来ない」。これは欠点のように思えるが、神性を孕むにはかえって好都合になっているように私には見える。しかも、歌を伴っているとなれば尚更だ!*3 もう、“神”になるしかない。
 
 ここで注目しなければならないのは、ニコニコ動画をはじめとするインターネットツールが果たした役割だ。従来からよくあったような、フィギュアやコレクションを自室で愛玩するような「キャラクターに魂を感じる」の場合、人形に魂が宿るという現象は、個人的な、プライベートな次元で終わってしまう。ところがニコニコ動画で「キャラクターに魂を感じる」の場合は、この限りではない。“ヴォーカロイドに魂を感じる”という出来事は、「たくさんの人が熱中しているなぁ」と第三者にも観測できる現象になる。本来なら、きわめてプライベートな営みに過ぎなかったキャラクターへのアニミズムが、ニコニコ動画というネットツールを介すれば、神様を乗せた御神輿を都大路でワッショイする風景、になるわけだ。この差はとてつもなく大きい。
 
 日本のインターネット空間では、キャラクターへのアニミズムは個人的な水準を逸脱し、大集団の熱中として観測できるところまで到達している。もう“いっぱしのアニミズムの神”として、八百万の神々の名簿に、ヴォーカロイド達の名前を登録しちゃっても構わないんじゃないか、と私は思いたくなる。ただし、ヴォーカロイドは神無月になってもネット上からいなくなったりはしないだろうけれど。
 
 ここまでを要約するなら、「万物に魂を感じるようなアニミズムの精神風土」という土壌の存在が、ヴォーカロイドに魂を感じるファンを存在させ、そのファンの心がニコニコ動画のようなインターネットツールを介して特濃レベルに集まりに集まって、ヴォーカロイドは本当に“神”になっちゃったんじゃないのか、ということだ。
 
 

「敬虔なキリスト教徒は初音ミクに魂を見出し得るか」

 
 さて、このような精神風土とネットツールの土壌のなかで生まれ、“神”として育まれてきたヴォーカロイド達が、海を渡って海外で支持を集めるとして、そのときヴォーカロイドは外国人達にはどのように映るのだろうか。とりわけ、大人向けの娯楽と子ども向けの娯楽との峻別の明確な国の人々、“かわいらしい人形”やアニメを子ども向けの娯楽と割り切っている人々、唯一神を崇拝する精神風土を内面化している人々――こうした人々にとってのヴォーカロイドとは、一体どのようなものなのだろうか。
 
 人形供養や針供養に示されるような、なんにでも魂を感じる日本人にとって、人の形をしたキャラクターに魂を感じるのはさほど困難では無いし、また自然なことでさえある。だが、人形に魂なりシンパシーなりを感じ取ることを幼少期に捨ててしまう(あるいは捨てることをよしとする)文化圏において、それは生やさしいことだろうか?いや、「生やさしい」という表現は言い過ぎかもしれないが、少なくとも、自明なことではあるまい。そして、仮に日本と同様の、ヴォーカロイドというヒトガタと、ニコニコ動画のようなネットツールが揃っていたとしても*4、初音ミクは“神”にはなれなかったのではないか。
 
 念押し的に書いておくが、だからといって「ヴォーカロイドが海の向こうで支持を集められない」と私が結論づけたいわけではない。ヴォーカロイドがなんらかの形で海外で支持される可能性は勿論あると思う。けれども日本のファン達――特にヴォーカロイドが出現してすぐさまヴォーカロイドに魂を感じ取り、ニコニコ動画で御神輿をワッショイしたアーリーアダプターなファン達――と同じような支持の集め方はしないのではないか、ということだ。言い方を換えるなら、日本のファンにとってツボだったところとは少し違ったところがツボとなって、その違ったところが必須要素となる形で広がっていく程度には異なった受容がなされるのではないか、ということだ*5
 
 なにかが海を渡って他の文化圏で人気を博する際に、原産国ではそのコンテンツに深く関係していたコンテキストが失われたり、逆に、原産国では全く想定されていなかったコンテキストが付与されたりすることは、よくある。インド→中国→日本と渡って来るたびに輸入国の色彩を帯びていった仏教がそうであったし、もしかすれば、日本に伝来した民主主義もそういうものかもしれない。オタク界隈でいうなら、三原龍太郎『ハルヒ in USA』に描かれたような例なども、そうと言える(だから私は、外国人のコスプレと日本人のコスプレの間にも、深くて遠い溝があるのではないか、と時々思ってしまうことがある)。
 

ハルヒ in USA

ハルヒ in USA

 
 海の向こうでヴォーカロイドが人気を博するとき、受容状況がどのように違ってくるのか、注視していきたい。
 
 

“神様”の輸出国としての日本文化圏

 
 とはいえ、外国人がヴォーカロイドや日本のキャラクターに魂を見出す可能性も、絶無ではないと思う。
 
 台湾のオタクのように、おそらく精神風土がもともと日本に近い人達はもとより、一神教が根付いてきた国々においても、“ねんどろいど”や形而上のキャラクターに魂を感じるような大人がそろそろと増えてくる可能性は、あるかもしれない。ヨーロッパでのハローキティの台頭や日本漫画の台頭などを思うにつけても、さしもの強力なキリスト教的な精神風土にも、八百万の神が揚陸する余地が生まれ始めているのかな、とは思う。*6
 
 そう考えると、さきの話とは逆になるが、ヴォーカロイドに魂や“神”を見出すような人が、海の向こうに現れてくることを期待したくなる。
 
 もし、そうした潮流があるとすれば、アニミズムの国である日本・そして“成人後も漫画やアニメに触れるような文化風俗”をアジア諸国のなかでいち早く定着させてのけた日本が、ある種の文化シーンの先端を形成していく可能性は、確かにあるのかもしれない。『クールジャパン』という山師めいたフレーズは嫌いだが、ヴォーカロイドやアニメキャラクターに魂が見出され、そうやって魂を吹き込まれた“神々”が市場淘汰という名のバトルを繰り広げるという秋葉原的・ニコニコ動画的な風景は、やはり日本の独壇場ではないか。
 
 人ではないモノに魂を吹き込み、崇め奉ることに関しては、八百万の神の精神風土は大きなアドバンテージだ。もし、魂の入った人形が海の向こうでも受け容れられる余地があるのなら、この国は“神様の輸出国”になるかもしれない。いや、既にそうなっているのかもしれない。
 
 (外国製アニメのキャラクターと比較して)のっぺりとした顔つきのヴォーカロイドやアニメキャラクターに魂が吹き込まれ、それが国内市場をいっぱいに満たし、海外へと溢れていった行く末は、どんなものなんだろう?キャラクターに魂を感じてしまう人間の一人として、気になるところ。
 
 [2chで拝んでいる様子]:「初音ミクは神そのもの」 21世紀から新しい宗教が生まれるとすれば、それは初音ミクのようなものだろう。:ニュー速VIPブログ(`・ω・´)
 

*1:いや、普段まったく初音ミクに接していない人のなかには、そう感じる人がいるに違いないし、そのような人は、どう転んでもヴォーカロイドにアトラクトされることは無いのだろう。とはいえ、少なくとも、初音ミクに日常的に親しんでいる人は、「初音ミクって、生身のアイドルに比べて存在感が薄いなぁ」とは夢にも思っていまい。

*2:たとえば一神教圏の人々は、果たして、トイレに女神様が宿るという歌詞に、違和感を感じずシンパシーを感じることが出来るだろうか。ところで、『トイレの神様』に登場する“トイレの女神様”には、宗教的にも民俗的にも、歴史的文脈が欠けている。この“トイレの女神様”に限らず、国道沿いのニュータウンやマンションで新たに想起される神々や“パワースポット”の類は、およそ歴史的文脈を欠いた拝まれ方をしているように見え、そのあたりは、“神”は“神”でもいかにも現代風だと思う。高度成長期以降、日本人の暮らしのなかから歴史的・伝統的文脈は大幅に失われた一方、どうやらアニミズムの精神までは失わなかったらしい。歴史的・伝統的文脈を欠いた信仰の問題は、無論こうしたカジュアルな信仰とは別個に、オウム真理教も含めた新時代の新宗教の問題等もあるにせよ、紙幅の関係でここでは踏み込まない

*3:『東方』や『アイマス』も似たような構図があるように思える。

*4:尤も、ニコニコ動画というツール自体が、甚だ日本的・神輿的ツールである以上、このような仮定はほんとうはナンセンスである。

*5:実際、トヨタのCMに登場する初音ミクのボディラインや顔つきを見ていると、ほんのすこし異なったフレーバーを強調しているように見えなくもない。初音ミクの面影は勿論しっかりあるけれども、「太平洋を渡るための化粧」がなされているような。

*6:「それって偶像崇拝じゃん?」と言われたら、はい、そうですね、と応じたくなるところではあるが。