シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

キャバ嬢メイクは「化粧」か「マスク」か

 
 
 
 「キャバ嬢メイク」がいつ頃から流行り始めたのかよく知らないけれど、今では田舎のコンビニ店員までもが、ゴテゴテとしたあのメイクをコピーアンドペーストしているを見かけるようになった。顔の特徴を化粧で塗りつぶすような、自分らしい美しさの追求とはおよそ無縁のメイクをわざわざ選ぶ若い女性の姿を見ていて、なんであんなことをしているんだろう?と以前から私は疑問に思っていた。
 
 その疑問が、やっと解けたような気がするので書き残しておくことにする。ヒントをくれたのは、以下のtwitterの書き込みだ。
 

 

 

 
 なるほど、女装のメイクにしてもキャバ嬢メイクにしても、化粧でゴテゴテに塗りつぶすようなアレをやれば、確かに「誰だって同じような顔になる」。これを逆から考えると、キャバ嬢メイクをやっている人達が目指しているのは、「自分の顔を美しくみせる」ことではなく、実は「美しいキャバ嬢メイクを被る」ことなんじゃないか。もっと言うなら「キャバ嬢のマスクをかぶる」ことなんじゃないか。そう考えると、色んなことが腑に落ちるように思う。
 
 

「マスクをかぶれば自分が変わる」の国

 
 ここで思い出して欲しいのは、能に代表される、日本の伝統芸能の精神だ。
 
 日本文化圏では、般若の面をつければ、その人は般若となり、おたふくの面をつければ、その人はおたふくとなる。ここでちょっと長くなるが、クリストファー・ラッシュ『ミニマル・セルフ』から、関連した記述を紹介しておく。
 

ミニマルセルフ―生きにくい時代の精神的サバイバル

ミニマルセルフ―生きにくい時代の精神的サバイバル

  • 作者: クリストファーラッシュ,石川弘義,岩佐祥子,山根三沙
  • 出版社/メーカー: 時事通信社
  • 発売日: 1986/11
  • メディア: 単行本
  • クリック: 1回
  • この商品を含むブログを見る
 

 東京に長く住み、禅や能、日本映画等に関する著作をもつアメリカ人、ドナルド・リチーは最近のインタビューのなかで、日本は西洋文化の中枢にある「あやまち」、つまり自己に対する信念、の解毒剤になると話している。「日本という国はわれわれの感覚でいう『読み』ができないところだ。……ここでは目にみえるものがリアリティなのだ。表面にあるものがリアルなもの……どんなに一生懸命みても、マスクが顔なのだ。『本当の私』というような、その人からある意味で分離されているものという概念は存在しない。ここの人々はみたとおりのまま。外からつくりあげられているのだ。……日本人は西洋ではよく知られて象徴のようになっているものをもってきて、自分のものにする。だからといって彼らがつくりもの(プラスチック)の人々というわけではない。ここではあらゆるものがつくりもの、人工のものなのだから。そうではなく、虚偽のなかに生きているのは西洋のわれわれなのだ。プラトンや聖パウロがわれわれを迷わせたのだ!そうして、もちろんルネサンスも。でもここではすべてが、自らをあらわしているのだ」
 
 クリストファー・ラッシュ 『ミニマルセルフ』、時事通信社、1986 、P170-171より抜粋

  
 マスクを身につければ、そのマスクが表象しているものに自分自身が「なる」という視点。本音と建前の国、そして時と場所に合わせて神道にも仏教にもキリスト教にも馴染めてしまえる国の精神風土において、この視点は荒唐無稽とも言えまい。
 
 この視点で見るなら、キャバ嬢メイクの機能は、「自分を美しく誇張するための化粧」というよりは「キャバ嬢になるためのマスク」という風になる。日本の精神風土においてキャバ嬢のメイクをするということは、つまり、キャバ嬢になる、ということだ。あるいは自分の顔を「かわいさ」で塗りつぶすということは、「自分がかわいくなる」、ということだ。
 
 あるいは言い換えるなら、「他人から見てかわいくみせる」という機能と同等かそれ以上に、「キャバ嬢メイクをしている私はかわいい」という自分自身の“思いこみ”、または“なりきり”の機能が重要である、ということかもしれない。
 
 

マスクは他人よりも自分に対して強く働く

 
 さて、この「キャバ嬢メイクはマスク」と同じ見方で世の中を見渡すと、似たような構図の「マスクマン」や「マスクガール」がたくさん存在することに気付く。
 
 例えば、第三者から見てやりすぎにしか見えないような若作りをしている男女も、あれは「他人に若く見せる」という機能と同等かそれ以上に「若作りしている私は若い」という自分自身の“思いこみ”、または“なりきり”の機能が重要なのだろう。同様に、“40代女子”とか“チョイ悪オヤジ”とかいうキャッチコピーに釣られた人達も、そういったマスクになりきりたかったのかもしれない。
 
 そして実際、若作りをすれば若くなるし、女子を装えば、女子になれちゃうのだ。
 主観レベルでは。
 
 第三者からの評価云々はともかく、少なくとも主観レベルではマスク次第で“キャバ嬢”にも“女子”にも“チョイ悪”にもなれるというのは便利なことだし、そのためのツールとマーケットが整備されている以上、こうした現象が巷に溢れるのも無理は無い。みんな、自分のかぶりたいマスクを被るために、何某といったファッション雑誌をチェックして、マスクの手入れに余念が無い。その有様は、まるでマスクに取り憑かれた人のように見えなくもないけれど、この国の精神風土では、マスクや仮面の類は、それをまなざす他人に対する見た目以上に、それを身につける自分自身に対して強い力を及ぼすようなので、無理もないことだなぁと思う。
 
 

マスクの被りすぎにご用心を

 
 では、そんなマスクとどう付き合えばいいのか?
 私は、マスクを被りたい人は、被ればいいんじゃないかと思う。
 
 “キャバ嬢メイク”も“若作り女子”も、それはそれでいいんじゃないか。せっかくマスクや仮面が使いやすい精神風土なんだから、使うと便利な場面では、“思いこみ”や“なりきり”のポジティブな効果を生かせばいいと思う。「まず形から入る」という慣用句もあるわけで。
 
 ただし、同じマスクばかり被っている人は、いざ、マスクを取ろうと思った時に困ってしまうかもしれないし、マスクが取れてしまった時に狼狽えてしまうかもしれないので、同じマスクをずっとつけっぱなしにするのは危なそうだ。言い方を換えるなら、その“なりきり”や“思いこみ”にアイデンティティを仮託しすぎるようだと、いざマスクが取れた時に、(その仮託した)アイデンティティまで剥ぎ取られてしまって、「私って結局一体なんだったんだろう?」「マスクの無い私はのっぺらぼうなんじゃないか?」と空虚な気分になるかもしれませんよ、ということだ。こうなると、のっぺらぼうになるのが怖くてマスクがとれなくなってしまう。
 
 個人主義の存在しなかった時代には、それは大した問題ではなかったのかもしれないけれど、個人主義の時代を生きる私達にとって、そういったマスクを脱ぐ際のアイデンティティの剥離は、精神的な苦痛をもたらす可能性が高い。
 
 マスクに頼りすぎた人間は、マスクの呪いに苦しめられる、ということだ。
 マスクはとても便利だけど、マスクに振り回されないよう、ご注意を。