シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

“無縁社会”?それとも“無縁個人”?

 
 お昼過ぎの時間帯に国道沿いのコンビニに行くと、近所のおばあちゃん達によく出遭う。知っている人がいれば挨拶し、レジで女性店員と世間話をすることもある彼女達の振る舞いを見ていると、昔ながらのコミュニケーションの様式が染み付いているなぁと思う。女性店員側も、お年寄り達の扱いに慣れているのか、巻き込まれているのか、マニュアルにそう書いてあるのか、よほど忙しい時を除けば会話に付き合っている。
 
 私の住んでいる地域*1では、これに類する光景をあちこちで見かける。生活空間のなかに片っ端から知り合いをつくり、“縁”を紡いでいくというか、持続的で、情緒的な、良くも悪くもウェットなコミュニケーションを志向するお年寄り達。今流行の“無縁社会”という言葉がウソのような気がしてくる。
 
 

“無縁社会”というけれど…。

 
 メディア上では“無縁社会”という言葉をよく見かける。
 
 不安の鉱脈を掘り当てた“無縁社会”という言葉が指し示す社会情勢は、確かにタイムリーだし、生活環境や雇用環境の流動化・コミュニティの消失などによって“縁”を紡ぎにくくなっているというのも事実だろう。
 
 その一方で、“縁”を紡ぐ人間は、いないようでまだまだ存在する。前述のお年寄りのように、“縁”を紡ぐには不向きそうなコンビニのような場所でさえ、なにかしらの“縁”を構築して自らの生活空間に取り込んでいく人々が存在している。
 
 また、インターネットのような「コンテンツの切れ目が縁の切れ目」「カーニバルの終わりが縁の切れ目」になりやすそうな場所でも、長く切れない“縁”を紡いでいる人間はそれなりに見かける。ネットで紡いだ“縁”から結婚し、その後もうまいことやっているカップルなどは、その代表例と言えるだろう。時代が変わっても、世代が変わっても、新しい“縁”を紡ぎ、継続的な人間関係を育む人間は、いるところにはいるのである。
 
 
 このことを踏まえると、私は“無縁個人”というフレーズを連想したくなる。
 
 結局のところ、社会や環境がどうであれ、“縁”を志向する人は“縁”を紡ぐし、“縁”を志向しない人は“縁”を紡がないのではないか?
 
 例えば、場面や役割ごとに割り切ったコミュニケーションを好み、“しがらみ”を避ける処世術に慣れきった人が、村社会的な環境を与えられた時、そこで持続的で情緒的なコミュニケーションを行って“縁”を紡ごうとするだろうか?たぶん、そんなことはあるまい。「いちいち情緒を共有するなんてストレスフルで面倒くさい」「自分にとってメリットが明確なコミュニケーションで済ませたい」と思って、すぐ飛び出してしまうのではないだろうか。
 
 逆に、その気になれば幾らでも“しがらみ”を回避できる環境を与えられても、“縁”を志向する人はやっぱり“縁”を紡げる場面や相手を探し出していく。そのためのノウハウも蓄積している。このような人達にとってのインターネットは、自分の紡ぎたい“縁”を、少なくとも出発点に関しては自由に選択できる場として、重宝するものかもしれない。
 
 こうした、コミュニケーションの志向性次第で個人レベルの“有縁化”“無縁化”が左右されることを踏まえなければ、“無縁社会”とやらのソリューションも見えてこないと私は考える。少なくとも、個人レベルのソリューションについては、そうだろう。社会全体の傾向を云々するのもいいが、自分がどのようなコミュニケーション志向性を持ち、これからどういう人間関係を形成していきたいのかを振り返ったほうが、個人にとってよほど意味があるのではないか。
 

*1:典型的な地方都市の、国道沿いエリア