シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

時計の針が止まったままの世代交代

 
 NYTimes 「日本の若者は世代の障害に阻まれている」
 
 上記リンク先は、ニューヨークタイムズを翻訳したものだという。
 
 刺激的な記事内容に、はてなブックマークに大量のコメントがついている様子が凄まじい。年金問題にせよ、就職状況にせよ、古い世代がどっかと居座って(若年世代からみて)にっちもさっちもいかなくなっている現状を見ていると、リンク先の指摘は間違っていないのだろうと思う。
 
 ところで、世代交代という現象は、それぞれの世代が独立して行うものではなく、上の世代・下の世代とも連動してドミノ的に進行するものとして捉えなければならない。思春期世代がなかなか壮年期的役割に移行しないという事態は、壮年期世代が老年期的役割に移行しないという事態と必ずリンクしている。新世代の雇用が増えないという事態は、より上の世代の雇用が減らないという事態とも(イコールの関係ではないが)リンクしているし、新世代が幼いメンタリティに固執している傾向は、その親世代が“幼子を保護する親”というメンタリティに固執している傾向ともリンクしている。
 
 この観点から見たマクロな日本社会は、すべての世代において世代交代が遅れているようにみえる。定年を過ぎても働き続ける60代〜70代・いつまでも子どもを養い続け、保護し続ける親達・そして自分の力ではどうにもならない雇用状況を呪いながら、一方では永遠の思春期を謳歌する若年世代…。どこの世代も上の世代がグズグズしていてつっかえていて、新しい世代が入り込む余地が減っている。「はやくどけよ!」と言っても、どいてくれるものではないし、自立や引退を強制するような通過儀礼も存在しない*1。また下の世代の側も、次のライフステージに無理に移行しようという動機には乏しく、モラトリアムの延長に満更でもなかったり、モラトリアムにピリオドを打つ決断に躊躇していたりもする。
 
 これでは世代交代がつっかえるのも仕方ないというか、むしろ当然だろう。
 
 今の世の中で、「オレはもう老人になるよ」「私はモラトリアムをやめて養う側になる」という宣言は滅多に聞かない。むしろ「40代になっても女子」だの「60歳からが人生の本番」だのといった、正気の沙汰とは思えないフレーズが持て囃されている現状をみるに、世代を司る時計の針は、おそらく数十年前に壊れてしまったのだろう。昭和の後半に壮年期だった者は壮年期のまま、思春期だった者は思春期のまま、児童期や幼年期だった者は児童期や幼年期だったままのメンタリティ――このあたりは、80年代から延々と続く“かわいい”ブームとも地続きのようにもみえる。
 
 こうした、世代交代の停滞、あるいは「子どもがいつまでも子どものまま」問題については、精神科医の土居健郎Dr.が『甘えの構造』(1971)のなかで早くも指摘している。以下に抜粋してみよう。
 
 

「甘え」の構造 [増補普及版]

「甘え」の構造 [増補普及版]

 

 最近(昭和44年8月22日)、毎日新聞紙上の視点と呼ばれる小さなコラムに、「生き遅れの季節」と題する次のような記事がのっていた。「カッコイイ」という流行語がなまって「カッチョイイ」が流行りだしたが、これは幼児の舌足らずのしゃべり方への傾斜を示している。青春の季節は、大人に早くなりたい、子どもだとあなどられたくない、という生き急ぎの季節だと思っていたが、昨今はどうも生き遅れの季節であるらしい。その証拠に、長い髪や花やかな服装のどこが魅力なのか、と青年たちに聴いたところ、「かわいく見えるから」という答が返ってきた。以上がこの記事の大要であるが、このかわいく見えたいという気持が甘えの表現であることはいうまでもないことである。
 土居健郎 『「甘え」の構造』 弘文堂、1971.より抜粋

 「カッチョイイ」という言い回しはともかく、“生き遅れ”というテーマに関しては平成時代にも全く色褪せない指摘である。そして昭和44年に20歳だった若者は、平成23年においては62歳、いわゆる団塊世代に相当する。
 
 さらに土居Dr.は以下のように付け加えている。
 

 さてこのような傾向が、子どもの天国といわれる日本だけのことではなく、現在世界全体で見られる現象であることは興味深いことである。もっとも日本は子どもの天国といっても、最近は子どもが親に殺される例が後をたたないなど、子どもの天国というのは程遠い感がするが、しかしこれは子どもみたいな親がふえたためであって、子どもだけでは子どもの天国が生まれないことを示す格好の材料といえるであろう。
 土居健郎 『「甘え」の構造』 弘文堂、1971.より抜粋

 21世紀になって少子化問題が取り沙汰されているのは、昭和44年に「子どもみたいな親が増えた」と呼ばれた団塊世代によって育てられた世代である。いわゆる若者論として「子どもっぽい」「幼稚」という批判をよく耳にするが、このような批判は今に始まったものではなく、現代の青少年の親世代に対して先ず提出されていたことは記憶しておいて然るべきだろう。
 
 四十年前に子どもっぽいと言われていた世代が、還暦を迎えてもなお若さと快楽に執着してやまない有様を見る限り、彼らのかなりの割合は、いまだに思春期〜壮年期のメンタリティに留まっているようにみえる。そのような世代によって育てられた現代の若年世代が、子どもっぽいままの20代30代を迎えたとしても、さほど不思議なことではない。
 
 

昭和世代の世代感覚は、時計の針が止まったままなのでは?

 
 このような世代交代-不全の問題は、就労分野だけに限ったものではあり得ない。親子関係や教育問題なども含めた広い範囲で“生き遅れ”による歪みが生じているようにみえる。平成世代はともかく、こと昭和世代に関しては、身体は加齢しても心は昭和時代に置き去りになってしまっている人が相当数いるのではないだろうか。
 
 昭和の終わりに思春期だった者は、今も思春期のままで。
 昭和の終わりに子どもだった者は、今も子どものままで。
 
 このような情況下で、若年世代だけの力で老年世代に取って代わるというのは、大変困難なことのように思える。若年世代に対して次のステップに移行するよう要請するなら、そのぶん上の世代もまた次のステップに移行すべきであって、「キミたち若い世代は成熟すべきだ。しかしオレたちの世代は歳をとりたくないから宜しく」というのはたぶんどこかおかしい。自立を子どもに促す際に、親の側も子どもの手を徐々に離さなければならないのと同じように、こういうことは下の世代の動きと上の世代の動きがリンクしなければスムーズに進みそうにない。
 
 ところが現実は正反対で、自分が人生の次のステージに立つことを想像するだけでも不安になる人が、巷には溢れている――老年世代は老年世代なりに、若年世代は若年世代なりに。そうやって、現在のライフステージを延長することに必死にならざるを得ない人達が多数派になりつつあるなかで、世代引き継ぎがすんなり進むとは思えず、雇用の面だけでなく心理の面でも、一種のデッドロック状態が続いているようにみえる。
 
 

*1:もちろん、現代において自立や引退を強制する通過儀礼が存在したら、「それは社会による抑圧だ」と非難されることだろう