あなたは、人とどう繋がりたいのかを決める権利がある
昔、はてなダイアリー界隈が“はてな村”と呼ばれていた時代を思い出した。
(株)はてなが提供する「キーワードで繋がる面白ブログ」こと“はてなダイアリー”が、それなりにタイムリーだった時代が実際にあったと思う。もうだいぶ前、2005年〜2007年ぐらいのことだ。ネームバリューのある知識人が読み応えのある文章を書いていた頃や、余所のネットサービスに比べてコミュニティ性の高いブロゴスフィア*1を形成していた頃を、今でも思い出せる人はいるだろう。
しかしその後の“はてな村”は、内輪ウケや揉め事がやたら目立つ、肥大化した自意識の陳列棚のような様相を呈していき、はてなダイアリーのシェア率も低迷していった。ITメディアのインタビュー上で、梅田望夫さんが「日本のインターネットは残念」と表明したのは2009年のことだが、少なくとも“はてな村”というコミュニティに関しては、実際に残念な状態になっていったと記憶している。
そして2011年。
現在、はてなダイアリーの利用者のなかに、“はてな村”なるもの、つまり“コミュニティとしてのはてなダイアリー”を意識している人間はほとんどいない。もちろん今でも、はてなダイアリーを使っていて影響力のあるブログは存在する――例えばリアリズムと防衛ブログや深町秋生のベテラン日記のような――が、そうした優れたブログなりブロガーなりが、コミュニティとしての“はてな村”のほうを向いているとは考えにくい。現在のはてなダイアリーでしっかりした記事を書いている人達は、“はてな村”などという、時代錯誤で、手狭で、有るのか無いのかわからないようなものは無視して、インターネットのもっと広い領域を想定した情報発信を行っているように私にはみえる。
かつて“はてな村の村長”と呼ばれていた加野瀬未友さん(id:kanose)も、“コミュニティとしてのはてなダイアリー”に軸足を置いていない;この現状を踏まえるなら、“はてな村”は自然消滅したと考えるのが適当だろう。はてなダイアリーというサービスは残っているし、大小さまざまのブログが存在してはいる。しかし“コミュニティとして繋がったはてなダイアリー”は見当たらない。
“はてな村”は、廃村になったのである。
「まだ“はてな村民”が生き残っていたとは!」
ところが、廃村の浦島太郎、またはゾンビのような存在が現れたのである。
あなたは、人とどう繋がりたいのかを決める権利がある
2005-2007年頃の“はてな村”ではありがちな、しかし今日のインターネットでは非常に珍しい、自意識過剰なレトリックと村民感覚が入り混じった、けだし名文である。以下にダイジェストしてみよう。
ブロックしたくらいで「晒されて寄ってたかって中傷」するような馬鹿は私が強烈にdisってやる*2と此処に約束をしておく。
……。
一体何様のつもりなのだろうか。
正義の味方か、ライトノベルの主人公とでもいうのだろうか?
筆者には、“はてな村”への所属意識・コミュニティ意識があるのかもしれない。「“はてな村”で女子大生を中傷するようなやつがいたらおじさんがやっつけてやるよ」という、村仲間への善意のようなものというか。そうとでも解釈しなければ、このヒロイズムと全能感に充ちた表現はフォローしようがない。
だが“はてな村”なるネットコミュニティが崩壊し、他のネットメディアの存在感のほうがずっと大きくなった現在において、このような口約束にはたいした効果も値打ちも無い。効果も値打ちも無いのに、効果や値打ちがあるかのように約束をしてしまうあたりに、“はてな村”の村民意識の残滓のようなものを感じずにはいられなかった。
白眉は、以下の一文である。
痩せても枯れても一応は「はてな村」ではそこそこの力を持っているし、何よりパワーハラスメントな行為をするような卑劣漢は大嫌いだからだ。
「一応は「はてな村」ではそこそこの力を持っているし」!
( ゚д゚)ポカーン
果たして、こんな文字列をアウトプットできる人間が、2011年のインターネットにどれぐらい存在するだろうか。
このような文字列をアウトプットするためには、
1.“はてな村”というネットコミュニティをいまだに幻想し、
2.“自分ははてな村では序列が高い”という自意識を持ち、
3.“はてな村で序列が高ければ影響力も高い”という思い込み
が必要だろう。
コミュニティとしての“はてな村”が廃村化して久しいにも関わらず、これらの意識を温存し続け、あまつさえアウトプットできる人間が存在することに私は驚愕した。1.2.3.の条件が揃った人は、今後は出てこないのではないか。
ネット民俗学的な資料とみるか、葬送すべきゾンビとみるか
件のエントリにはほかにも、「女子大生」「おっさん」というレッテルを貼るのは良くないと言いつつも、筆者自身をおっさんだおっさんだと強迫的にレッテル貼りする など、往年の“はてな村”を彷彿とさせる転倒がいろいろ含まれており、“はてな村”的な感性を振り返りたい人には、満を持してお奨めしたい。19歳の女子大生への語りかけに“ヴァカ”というボキャブラリーを用いるのも、難易度が高いチョイスである。
インターネット民俗学的に考えるなら、こうしたアウトプットは「“オタクだからこそ女の子を守ります」宣言”などと同様、後世に残る貴重な民俗誌ともとれる。その時代のインターネット・その時代のコミュニティのなかでしか流通し得ない文章・流通し得ないレトリックというのは確実に存在するのだから、往年の“はてな村”を今に伝える資料として、その筋の好事家は定めし収集していることだろう。
一方、新時代のインターネットに爽やかさを期待する人達からすれば、村-感覚に囚われた窮屈なセンスであり、葬送すべきゾンビ、ということになるのかもしれない。
どちらの見方にせよ、“はてな村”を彷彿とさせるこの種のセンスにお目にかかれる機会は今後ますます少なくなるだろう。あるいは今回が最後かもしれない。時代が変われば、インターネットも、コミュニティも変わっていく;そんな事を考えさせられる一件だった。