シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「思春期に幽閉される」というしんどさ

 
 
 「思春期モラトリアムの延長」という言葉を聞いたことのある人は多いと思います。昔は20歳ぐらいまでを思春期と読んでいたのが、近年、“30歳までが思春期”とか“35歳まで思春期”とか言われるようになってきた、アレです。
 
 この思春期モラトリアム延長の要因としては、大学進学率の上昇のような“大人になるまでに学習すべきことの増加”や“晩婚化”、“人的流動性の高まった社会”などがしばしば挙げられます。まあ、間違っていないような気がします、たぶん。
 
 思春期が延長した要因については機会を改めるとして、このテキストのタイトルは「思春期に幽閉されるしんどさ」です。慣用句には“薔薇色の青春”なんて表現もありますが、思春期の延長という現象が、いま思春期をやっている人達にとってどういう意味を持つのか、立ち止まって考えてみたくなった次第です。
 
 

高い濃度を保てるなら、思春期延長も悪くない

 
 思春期が延長したら、そのぶん思春期の楽しさや充実感も増大したのでしょうか?
 
 もし、思春期が延長したぶん、自分好みのアイデンティティが手に入るまでトライアンドエラーを積み重ねることが可能で、“スキルや経験を身につける機会”に恵まれるなら、濃密な時間を過ごして幅広い選択肢のなかから思春期の出口を選べるしれません。そんな思春期が30代の後半までミッチリと持続したら、たいそう充実した思春期と言えそうです。
 
 このような、内容のぎっしりした思春期の延長には“幽閉”とか“水増し”といった言葉は似合いません。思い出も、充実感も、スキルや経験も、たんまりゲットできるでしょう。なかなかよさそうです。
 
 

水増しされた思春期に閉じ込められると悲惨

 
 問題は、上のようなミッチリとした思春期ばかりではないという点です。
 
 “スキルや経験を身につける機会”や“取捨選択の機会”というやつは、無条件にやってくるものではありません。そういうチャンスを自分で拾ってくる意志や能力や運があってはじめて遭遇できるものですから、ボンヤリしている人の思春期にはチャンスはあまり巡ってきません。
 
 実際にやってくる思春期にはもっと色々あって、例えばネットゲームや2chをひたすら続けるのも、コンテンツを受動的に消費するだけのブロイラーとして飼い慣らされるのも、現代の思春期としてはありがちな姿です。また、子どもとしての立場を手放すことのないまま(というより、子どもとしての立場に半ば押し込められたまま)、傷つきのリスクを最小化する処世術ばかり上手になって、トライアンドエラーの欠落した思春期を過ごす者もいます。
 
 いくら延長しても、思春期の出口には至らない思春期。
 いつまでも変化せず、同じところを堂々巡りする思春期。
 
 こういうのは、“幽閉された思春期”と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。トライアンドエラーや探索行動を含まないという意味では、本来的な意味での思春期モラトリアムでは無さそうなこうした思春期は、いわゆる「終わらない文化祭」というよりも「まだ始まってすらいない文化祭」と喩えるのが適切かもしれません。
 
 世の中には、思春期の延長をすばらしいという人もいるかもしれませんが、思春期が延長するということは、この煩悶の多い季節・アイデンティティや実存の揺らぎに苛まれる季節が長引く、ということでもあります。思春期だから気楽などということは普通はありえず、最も充実した思春期から最も貧困な思春期まで、もともと思春期というのは固有のしんどさを含むものです。そのような思春期が、たいした実りも進展も学習もないままに、ただ意味もなく間延びしていくというのは、喜びの延長というより、苦役の延長であるようにも思えます。
 
 時間ばかりが水増しされて、いつまでも同じところをグルグルと回っているような思春期――こんなのは、クノッソスに幽閉されたまま時間と若さを消耗していく、気の毒なミノタウロスのようなものかもしれません。そんな思春期を幾ら延長したってしんどいだけなわけで、こうした人達にとって、思春期の延長というのはむしろ地獄のような境地に思えます。
 
 

「思春期の幕を閉じるのも自己責任!」

 
 こういうことを書くと、
 「じゃ、思春期なんてさっさとやめたら?」
 っていう人もいるかもしれません。
 
 ところがどっこい、昨今、思春期の終わりは社会や制度がもたらしてくれるものではなく、自己責任と自己判断で終わらせるものみたいです。「自分の力だけで思春期が終えられそうにない人も、がんばって出口を見つけてくださいね」、みたいな。思春期の延長をレベルアップのチャンスとして喜べるような、パワフルな思春期の人達なら思春期の幕引きも自力でやってのけやすいかもしれませんが、思春期ダンジョンの入り口で途方に暮れている人にまで「思春期のゴールは自己責任」っていうのは、なんだか大変のような気がします。まるで悪酔いするジェットコースターに乗ったまま自力では降りられないみたいな。
 
 思春期に強制終了が無いかわりに、思春期の出口を見つけるのも自己責任の時代――こういう時は自由と自己責任も考え物かもしれません。40歳以降もダラダラ思春期を続けるって、並みの神経ではちょっと耐えられそうにないですから。